解雇規制に関する一アイデア

2月21日のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20080221)に対し、hamachan先生からブログでコメントをいただきました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/hamachan_9961.html
私の探索からは洩れていましたが、「季刊労働者の権利」270号の特集への寄稿がホームページのほうにアップされているとご指摘を受けました。というか、この特集、「キャリアデザインマガジン」第68号に載せた「脱格差社会と雇用法制」の書評(このブログではhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20071203に転載しています)を書くために読んでいたんですが、ご指摘の部分はまったく記憶から落ちていました。書評で使った部分ばかりが集中的にアタマに残ってしまったのでしょうか。おかしいなあ。
言い訳はともかく、2月21日のエントリは「八代先生とhamachan先生が「企業の経営効率」と「勤労者の福祉」というまったく異なるアプローチをとっているにもかかわらず、ほぼ同じ結論に到達している」ことを面白がっているだけのまことに下世話な内容なのですが、hamachan先生の寄稿のほうはたいへん論争的な問題提起ですので、ここでご紹介するとともに、私の意見というか、感想も簡単に書いておきたいと思います。

 解雇回避努力義務の中に時間外労働の削減が含まれていることが、恒常的な時間外労働の存在を正当化している面があるし、配転等による雇用維持を要求することが、家庭責任を負う男女労働者特に女性労働者への差別を正当化している面がある。そして、何よりも非正規労働者の雇止めを「解雇回避努力」として評価するような法理は、それ自体が雇用形態による差別を奨励しているといってもいいくらいである。
 もちろん1970年代の感覚であれば、妻が専業主婦であることを前提にすれば長時間残業や遠距離配転は十分対応可能な事態であったし、非正社員が家計補助的なパート主婦やアルバイト学生であることを前提とすれば、そんな者は切り捨てて家計を支える正社員の雇用確保に集中することはなんら問題ではなかったのかも知れない。
 しかし、今やそのようなモデルは通用しがたい。共働き夫婦にとっては、雇用の安定の代償として長時間残業や遠距離配転を受け入れることは難しい。特に幼い子供がいれば不可能に近いであろう。そこで生活と両立するために、妻はやむを得ずパートタイムで働かざるを得なくなる。正社員の雇用保護の裏側で切り捨てられるのが、パートで働くその妻たちであったり、フリーターとして働くその子供たちであったりするような在り方が本当にいいモデルなのかという疑問である。
 近年ワーク・ライフ・バランスという言葉が流行しているが、すべての労働者に生活と両立できる仕事を保障するということは、その反面として、非正社員をバッファーとした正社員の過度の雇用保護を緩和するという決断をも同時に意味するはずである。「正当な理由がなければ解雇されない」という保障は、雇用形態を超えて平等に適用されるべき法理であるべきなのではなかろうか。この点は、労働法に関わるすべての者が改めて真剣に検討し直す必要があるように思われる。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/roubenflexicurity.html

なるほど、まことに刺激的な問題提起で、いきなり「解雇回避努力義務の中に時間外労働の削減が含まれていることが、恒常的な時間外労働の存在を正当化している面がある」とドキッとするような主張が来ます。これは、下手をすると「一方で長時間残業をしている人がいても、整理解雇してよい」と読まれかねないような気がしますが、さすがにそういう意味ではないでしょう。hamachan先生も注(引用していません)でひかれているように、「時間外労働の上限規制を導入することで雇用の柔軟性が損なわれ、整理解雇が増加することがあっても致し方ない(総合的にはメリットが大きい)」という意味であろうと思います。これはどのように評価するか意見が分かれるところでしょう。私自身はといえば、たしかに健康被害につながるような長時間労働はいかに本人が望んでも規制されるべきであり、そういう趣旨で時間外労働の上限規制を行うことはすべて否定するものではありません。ただし、それは就労や職務の実態をふまえた現実的なものである必要がありますし、規制の強さに応じた緩やかさが求められると思います。また、やはり雇用調整の柔軟性の低下を招くことができるだけないように十分な配慮が必要でしょう。。
「配転等による雇用維持を要求することが、家庭責任を負う男女労働者特に女性労働者への差別を正当化している面がある」というのは、なんとなくそうかなという感じはするのですが、ちょっとわかりにくいところもあります。「正社員に転勤要件を課すことが女性労働者への差別を正当化している」といったよくある主張は、当否は別として、意味するところはよくわかるのですが、整理解雇という一種の極限状態でも同じようなことを言えるものかどうか。いよいよ整理解雇は不可避だが、遠隔地の事業所では人が足りないからそこに転勤できれば仕事はある、という場面において、家庭責任を負う労働者は転勤できないから解雇され、負わない労働者は転勤に応じて首がつながる、というのが「差別」であるとして、それでは転勤できる労働者もできない労働者と同様の条件で整理解雇して、遠隔地事業所では別途新規採用する、というのが本当にいいのかどうか。「正社員に転勤要件を課しているんだったら、解雇する前に転勤させろよ」というのも正論のような気がしますが…。
続く「何よりも非正規労働者の雇止めを「解雇回避努力」として評価するような法理は、それ自体が雇用形態による差別を奨励しているといってもいいくらいである。」という主張と、最後の「「正当な理由がなければ解雇されない」という保障は、雇用形態を超えて平等に適用されるべき法理であるべきなのではなかろうか。」という主張もまことに挑発的なのですが、ここの議論は冷静になれば何をもって「正当な理由」とするか、に依存するということになりましょうか。現行法制では、整理解雇が必要となるような局面においては、非正規労働者の雇止めに対して「いわゆる正社員の解雇を回避するため」というのが「正当な理由」になる、とされている(実際には整理解雇の要件になっているわけなので拘束としてはもっと強い)わけです。そこには、長期にわたって転職すれば市場価値の低い企業特殊的熟練を蓄積してきた正社員の雇用は、そうでない非正規労働者の雇用に較べて手厚く保護されてしかるべき、という価値判断があるはずで、hamachan先生がここであげておられる「非正社員は家計補助的なパート主婦やアルバイト学生であり、正社員は家計の支え手である」という生計費確保的な価値観とのバランスで議論されるべきものでしょう。もちろん、このバランスは時代背景に応じて変わるわけで、従前と同様でよいかどうかは議論があるでしょうが、はたして「雇用形態による差別を奨励」とまで言っていいものかどうか、もちろん、北畑次官と同様、hamachan先生も論争を起こすために敢えて刺激的な表現を用いられているのかもしれませんが…。
表現の問題はともかくとして、これを裏返せば、非典型労働者の雇用を一定程度守るために、いわゆる正社員の雇用保護を一定程度失わせるべきだ、ということになるわけで、これをさらに極端に突き詰めていくと、福井秀夫氏らの主張する解雇規制の全廃、正社員の非正社員化というところに行き着きます。もちろんhamachan先生はそれよりはかなり遠いところでのバランスをお考えでしょう。どのようなバランスをお考えなのか興味深いところです。
また、具体的な規制の手法も興味深いところで、hamachan先生の所論からすると、正当な理由の判断要素として「生計費」を考慮すべきだ、とお考えのように思われます。hamachan先生はそこまではお考えではないでしょうが、一部で主張されるような「パートを掛け持ちしている母子家庭の母の雇い止めは認めないが、父親が開業医の息子のアルバイトの雇い止めは認める」というような規制を設けることが、はたしてこれら労働者の福祉に資するのかどうかは、とりあえず福井先生あたりには大いに異論がありそうに思えますし、私にもこうした問題は解雇規制よりは社会福祉で解決すべき問題のように思えますが…。
「しかし、今やそのようなモデルは通用しがたい。共働き夫婦にとっては、雇用の安定の代償として長時間残業や遠距離配転を受け入れることは難しい。特に幼い子供がいれば不可能に近いであろう。そこで生活と両立するために、妻はやむを得ずパートタイムで働かざるを得なくなる。正社員の雇用保護の裏側で切り捨てられるのが、パートで働くその妻たちであったり、フリーターとして働くその子供たちであったりするような在り方が本当にいいモデルなのかという疑問である。」というのはそのとおりと思うのですが、いっぽうで、これだと従来型のスタイルを禁止・否定しているかのような誤解も与えそうです。現実には、夫婦の稼得力に大きな差があるときには、一方が稼得に専念し、一方がそれ以外の家事などに専念する(当然いずれの性がどちらを担うかは両方ありうる)という役割分担が引き続き合理的になるでしょうから、それを選択することも拒まれてはならないはずです。「近年ワーク・ライフ・バランスという言葉が流行しているが、すべての労働者に生活と両立できる仕事を保障するということは、その反面として、非正社員をバッファーとした正社員の過度の雇用保護を緩和するという決断をも同時に意味するはずである。」と述べられますが、それは「保障する」であって、特定の「生活と両立できる仕事」スタイルを強要ないし奨励するものではなく、選択の自由も確保されたものであるべきではないでしょうか。
したがって、私は「雇用の安定の代償として長時間残業や遠距離配転を受け入れる」は従来どおり認められるべきであり、こうした働き方に対する解雇規制も従前のままであるべきと考えています。現行の解雇規制そのものについても、もちろん、まったく問題なく完璧だとは思いませんが、長年にわたり、多数の裁判例の集積を通じて形成されてきた法理だけあって、なかなかうまくできていると思いますし、個別事件の判断にあたってはそれなりに事実関係に応じた運用がされているとも思います。
それではhamachan先生の問題提起に対してどう答えるかということですが、私はそれはもっぱら解雇規制の緩和ではなく、雇用契約の多様化(規制緩和)によって実現されることが望ましいと考えています。
現状では、雇用関係の終了の主要な形態として、労働者自身による退職、使用者による解雇のほか、有期契約の満了、および定年があります。このとき、労働契約の形態としては、原則3年例外5年上限の有期雇用か、大半は事実上定年までの有期雇用である「期間の定めのない雇用」しか認められていません。長期の雇用契約によって労働者が拘束され、保護に欠ける危険性があるとの趣旨でしょうが、かなり硬直的な感があります。
私が提案したいのは、長時間残業や遠距離配転を受け入れる必要はないいっぽう、雇用保障もそれなりに低いものにとどまる、さまざまな雇用形態を導入していくことです。ひとり雇用保障だけではなく、キャリア展開も異なり、それにともなって処遇なども異なってくるかもしれませんが、そうした多様化によって解決をはかるわけです。具体的には、「経営上の事情によって雇用関係が終了する要件をあらかじめ予定した、期間の定めのない雇用」といったものが考えられると思います。基本的には定年までの雇用契約になるわけですが、たとえば勤務地や職種などを限定して契約し、当該勤務地や職種などが経営上の事情で消滅したり、大幅に縮小したりした場合には、定年退職と同様に自動的に円満退職する(解雇ではない)ことを予定するなど、退職の要件を契約時に予定しておくわけです。もちろん労働者は基本的にいつでも自由に退職できるわけで、これは使用者だけではなく、転勤や職種転換を望まない労働者などにとってもメリットのある方法だと思います。もちろん、現行の期間の定めのない雇用との中間形態として、退職の要件が発生した場合には、たとえば勤務地変更や職種転換などの使用者の提示を受け入れれば雇用を継続する、という特約を入れてもいいかもしれません。
これに、さらに労働時間をふくむ処遇やキャリアなども多様に設定し、たとえば残業はしなくていい、あるいは短時間勤務ができる、その分処遇やキャリアは高くない、といったバリエーションを加えていくことが考えられるでしょう。ありていにいえばコース別人事制度になるわけですが、それが性差別につながらず、かつコースチェンジのしくみをうまく組み込めば、企業にとっても働く人にとってもメリットのある仕組みが構築できるかもしれません。
「共働き夫婦にとっては、雇用の安定の代償として長時間残業や遠距離配転を受け入れることは難しい」というhamachan先生の問題意識に対しては、夫婦がそれぞれ「短時間勤務可能、遠距離配転なし、期間の定めはないが事業撤退や業績不振による規模縮小時には自動的に退職の可能性あり、キャリアや処遇は長時間残業あり遠距離配転ありの人よりは低くてほどほどのもの」という仕事につくことで、夫婦あわせてそこそこの金額の所得を得ることができる、ということを可能にすることで、答えていくことができるのではないかと思うのですが、これはいささか夢物語でしょうかねぇ。
ちなみに、余談になりますが、八代尚宏先生は「解雇規制が緩和されても、夫婦共働きであれば一方が解雇されてももう一方の収入が残る。現行の専業主婦家庭は夫が失業したときに収入がゼロになるのに較べれば、むしろリスクは分散されている」という主張をしておられましたが、それともちょっと似ているかもしれません。
また、八代先生といえば、先生ご自身が名著『日本的雇用慣行の経済学』で(解雇規制をともなう)長期雇用による効率的な人材育成のメリットを高く評価しているにもかかわらず、それ以上に解雇規制による事業運営の制約、たとえば不採算事業からの撤退や拠点の海外移転などが制約されることのデメリットのほうを重視しておられるように思われます。これに関しても、上記のような方法を採用すれば、解雇規制を緩和することなく、長期雇用のメリットを維持しつつ、事業運営への制約はかなり軽減できるのではないかと思います。