働き方改革の視点

きのうもちょっと書きましたが先週から今週にかけて日経新聞「経済教室」に八代尚宏先生、濱口桂一郎先生、阿部正浩先生という豪華メンバーが登場され、上中下の3回にわたって「働き方改革の視点」ということで論じられました。たいへん注目すべき論点が多数指摘されていますので、若干のコメントを試みたいと思います。

働き方改革の視点(上)八代尚宏昭和女子大学特命教授―労使より「労・労」対立克服を、職種を軸に制度再編

まず八代先生ですが、先生が常々おっしゃっておられる「労・労対立」、つまり労使間の利害対立ではなく多様な労働者の利害の不一致が制度的な問題点につながっているという問題提起になっています。
現状概観に続けて各種課題を網羅的に論じておられ、具体的には解雇の金銭解決、派遣労働、有期雇用、限定正社員、「高度プロフェッショナル労働制」、女性労働ワークライフバランス、高年齢者雇用および制度移行時の経過措置のそれぞれについて「労・労対立」の観点から整理しておられます。したがって、いずれも重要な問題提起を含んでいると思うのですが、しかし「経済教室」の限られた尺の中にこれだけのものを詰め込んでいるため、短い文章で端的に説明するために厳密性が犠牲になっていたり用語に支障があったりする部分も散見され、具体論としては多分に消化不良の感がなくはありません。様々な問題を「労・使」ではなく「労・労」という観点で考えることと、その考え方の応用範囲の広さを学ぶべき「経済教室」だろうと思います。
ということで最後の結論部分について一言だけコメントしておきたいと思います。

 労・労対立への対応としては、現在は努力義務にすぎない、「同一労働・同一賃金」の原則を、日本の多様な働き方に適用する法制化が基本となる。そのために、企業も職種を前提とした賃金体系への移行を進め、社員間の賃金差についての説明責任を負う必要がある。
 他方で、これまで企業の都合で職務を限定せずに働いてきた正社員には、定年までの年功賃金は保障しなければ、生涯を通じた契約違反という見方もある。しかし過去の高い成長期の働き方は、いつかは清算しなければならない。これは年金改革と同じで、企業と労働者の利害対立ではなく、世代の異なる労働者間での利害調整の問題である。
 長期雇用保障は、日本の優れた雇用慣行であればこそ、それを保護するのではなく、他の多様な働き方との対等な競争にさらす必要がある。伝統的な労使対立の枠にこだわるのではなく、多様な労働者間の利害調整を図るための政策形成が求められている。
平成27年3月20日日本経済新聞朝刊から)

まず「「同一労働・同一賃金」の原則を、日本の多様な働き方に適用する法制化」については、具体的には企業に対して「職種を前提とした賃金体系への移行を進め、社員間の賃金差についての説明責任を負う」ということであり、つまり企業内の同一労働同一賃金を求めるものであって業界や労働市場横断的なそれまで求めるものではないという点が最重要だろうと思います。まあ正直なところ企業の賃金体系については余計なお世話だと思いますが、説明責任を負う(労働者の納得までは求めない)べきだというのは非常にもっともだと思います。
次の「過去の高い成長期の働き方は、いつかは清算しなければならない」というのもそのとおりですし、すでに2000年前後の成果主義騒ぎのときに相当程度実行されたことでもあると思います。割り切って言えば従来ならまだ賃金が年功的に上昇すると約束されているはずだったにもかかわらず、経営状況の現在と今後を考えるともう約束は守れません、定年まで雇用を維持するという約束は守りますから(大半の人については)賃金の約束は反故にさせてくださいというのが成果主義騒ぎの核心だったのではないかと思うわけす。でまあそうは言っても成果が上がった人は賃金が上がるようにしてあるからやる気は維持できるだろうと思ったところふたを開けたらそんなうまくはいきませんでしたという話だったのではないでしょうか。
最後も八代先生のご持論で、たしかに長期雇用にも利点があるから企業が長期雇用がいいというのであれば各企業の責任で長期雇用を活用すればいいのであり、政府がそれを奨励したり保護したりすべきではないということでしょう。すなわち、多様化とその「利害調整を図るための政策形成」という結論になるのだろうと思います。

働き方改革の視点(中)濱口桂一郎労働政策研究・研修機構主席統括研究員―適切な規制で選択多様に

hamachan先生ご登場です。こちらも例によって「支持する側も反対する側も、働き方改革の本質を的確に理解していないのではなかろうか」「雇用の改革はいつも、労働者を無限定に働かせることができる企業の強大な人事権は維持しながら、雇用保障を目の敵にしてもっと自由に解雇できるようにすべきだと主唱する一派と、雇用保障を当然の前提としながら企業の人事権を批判する一派との不毛なポジショントークに覆われ、なかなかまともな議論が進まない」と問題提起され、「雇用内容規制が極小化されるとともに、代償として雇用保障が極大化されているメンバーシップ型正社員のパッケージと、労働条件や雇用保障が極小化されている非正規のパッケージ、この二者択一をいかに多様な選択肢に組み替えるかが、まさに今求められていることである。必要なのはシステム改革であり、それに伴う規制強化である」と主張されています。
その後、解雇規制、金銭解決、限定正社員、労働時間規制について各論を述べられていますが、実務的な観点から気になる点を書いておきたいと思います。まず、

 まず最大の誤解が、解雇「規制」である。多くの人々が労働契約法第16条が解雇を規制していると誤解し、これが諸悪の根源だという主張もある。しかしこれは、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない解雇は権利濫用として無効だと定めているだけである。
 権利自体は行使するのが当たり前で、例外として無茶な権利濫用を無効としているだけだ。その権利濫用という例外が、現実には極大化している。なぜなら裁判に持ち込まれる事案ではメンバーシップ型正社員のケースが圧倒的に多いためである。
 彼らは職務も労働時間も勤務地も原則無限定だから、会社側には社内で配転をする権利があるし、労働者側にはそれを受け入れる義務がある。残業や配転を拒否した労働者は懲戒解雇してよいと、日本の最高裁はお墨付きを出している。そうであるなら、たまたまその仕事がなくなったからといって配転の努力もせずに整理解雇することは認められまい。解雇は企業の外から規制されているのではない。企業自らがその人事権によって規制しているのである。
平成27年3月23日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)

これに関してはまったくそのとおりなのですが、世間で論じられている問題は必ずしもそこばかりではなく(そこばかりを叫ぶ論者というのも多いですが)、八代先生が今回もまた指摘しておられるように「日本の解雇規制の問題点は必ずしもそれが強すぎることではない。逆に、明確な法律がないために、裁判官の判断に依存する度合いが大き過ぎ、結果が不透明なことにある」というところがポイントではないかと思います。企業にとってはそもそも訴訟になること自体だけでも十分にレピュテーションリスクですし、予測のつきにくい中で解雇不当となれば全額のバックペイと復職を求められるという大きなリスクを抱えているわけです。
ただ私としては解雇事案の多様性を考えれば解雇の有効無効は個別事情に応じて判断せざるを得ず、透明度の高い判断基準は作りようがないし作るべきでもないと考えており、したがって解雇無効であっても復職を要しない解決方法を準備し、バックペイについても事情に応じて裁判所が減額するといったしくみにすることでリスクを軽減してはどうかと思っているわけです。法技術的に難しいことは承知の上ですが。
実際、hamachan先生が「企業自らがその人事権によって規制しているのである」と書かれているように、経営者の大半はそれを承知のうえであり、したがって解雇規制の撤廃や大幅緩和を求める経営者というのは、とりあえず長期雇用に基づく人事管理が確立している企業(なんなら経団連会員企業に限定してもいいですが)の経営者であれば、いないとは言いませんがかなりの少数派ではないかと思います。
もうひとつ、

 最後に、労働時間についても非常に多くの人々が誤解をしている。過去20年、日本の労働時間規制は極めて厳しいという誤った認識の下に、それをいかに緩和するか、という政策がとられてきた。しかし、日本では過半数組合または過半数代表者との労使協定、いわゆる三六協定さえあれば、事実上無限定の時間外・休日労働が許される。

いやそうはおっしゃられますが時間外労働の限度に関する基準とか労働時間等の設定の改善に関する特別措置法とか労働時間等設定改善指針とか
結局のところ行政指導というものはあるのであり(法律にも国は指導するよう努めなければならないということが書いてあるわけであり)、もちろんそんなもん知ったことかと言う企業もあるでしょうが、しかしこうしたものをまじめに気にしている企業というのもあるわけです。特に労働組合は、まじめな労働組合ほどこうした基準類が設定されれば(現場の実態とは乖離があって必ずしも組合員の利益にはならないとしても)なんとか守らせなければいけないと考えてしまうことは容易に想像のつくことでしょう。つまりこれらが事実上の規制になっているわけであって、法的には可能ですとか個別労使の問題ですと言って「誤った認識」と葬り去られるのは元実務家としてはやや心外なものがあります。
もちろん無限定に近い時間外労働が行われているという実態があるという意味で論旨に異論があるわけではありませんが、したがって繰り返し書いているように労働時間の上限規制も勤務間インターバル規制も否定はしませんが、しかしいたずらに安全サイドの規制をはかるのではなく、多様な労使の実態に応じて労使の自主的な努力を促す規制であってほしいを考えているわけです。
なおあとこれはよくわからないのですが欧州の整理解雇について「契約上許されない配転を命じてまで、解雇を回避する義務がない」というのは「契約上求められない配転を行ってまで」ではないかと思うのですが、違うのでしょうか?

働き方改革の視点(下)阿部正浩中央大学教授―「脱時間給」人事評価が要に

続いて阿部正浩先生が登板されました。脱時間給制度という用語はわりと最近広がってきたように思いますが、そもそも時間給じゃないだろうというツッコミはある一方で「時間の切り売りではない」というニュアンスは伝わる微妙な表現ですね。
さまざまな実証研究の成果をもとに「脱時間給」制度が働き方にどう影響するかを論じておられ、結論的にはこう述べておられます。

…労働時間の決定が労働者の裁量に委ねられることになっても、生産性向上や労働者の満足度上昇に寄与するかどうかは一概にはいえない。適用除外や裁量労働の適用対象を拡大すべきだという意見もあるが、そのことが経済全体にプラスとなるかどうかは、仕事の量と質についての目標管理をどこまで明確化できるか、そして成果をどう評価するかなどの職場マネジメントの成否が鍵となるだろう。
平成27年3月24日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)

まず「仕事の量と質についての目標管理をどこまで明確化できるか」については、こう書いておられます。

…目標管理で仕事の内容と範囲、その量と質が事前に明確にされていれば、生産性を上げて目標を完了することで所得は変わらずとも労働時間は短縮できる。…他方で目標が明確でない場合は、生産性が向上すれば賃金は高まるが、労働時間への効果は不明だ。労働者は労働時間を伸ばして稼ごうとするかもしれないし、短くして余暇を増やそうとするかもしれない。…ただし、健康に配慮した上で働き方が労働者の裁量に委ねられれば、労働者の満足度が最大になる労働時間が実現することはどちらも同じだ。硬直的な労働時間制度に比べ、柔軟な制度の下で労働者の裁量に任せるほうが労働者の満足度は増す。

これは「明確」については脱時間給、「不明確」については時間割計算ということでしょうか。それでも「生産性が向上すれば賃金は高まる」というのが少しわかりにくいのですが…。
まあ、いずれにしても、労働時間と賃金のみを考慮に入れる場合には「柔軟な制度の下で労働者の裁量に任せるほうが労働者の満足度は増す」というのは納得のいく結論です。
ただもちろん話はそう単純ではないわけで、そこで「成果をどう評価するか」という話がくるわけです。

…たとえばプレゼンテーション資料の評価は、その枚数だけでは決まらず、少ない枚数でも内容が良ければ高く評価されるが、問題なのは絶対評価で仕事の質を評価するのが難しく、相対評価にならざるを得ない点にある。相対評価の下で良い結果を得るためには、競争相手よりも内容の作り込みなどに努力する必要があり、そのために要する時間も必要となる。
 学者の世界では、質の高い論文がいくつあるかで評価される。米国の若手経済学者の研究時間の長さと論文数の関係を調べたミネソタ大学のコリーン・マンチェスター助教授らの研究によれば、両者には正の相関がある。研究時間を長くとれる学者ほど質の高い論文を書いており、競争に勝ち抜いて良いポストを得ているというのである。
 さらに、この研究は男女差にも注目するが、女性が子育てに多くの時間を割かれて研究時間が減り、それが良いポストに女性が就けない理由だとしている。
 企業でも、出世は長期にわたる評価の積み重ねで決まる。出世競争が激化するほど、労働者の努力が必要となるが、度を超えると家庭生活や健康との両立に影を落とすことになってしまう。

つまり、大雑把に整理すれば、労働者にはキャリアへの野心が強い人もいればそうでもない人もいるわけで、野心のない人は評価もそれほど気にはせず、賃金と労働時間くらいしか考えない単純な話ですませることができるわけですが、野心があるとそうはならないということでしょう。
逆に、キャリアをめぐる競争を勝ち抜くことに強い関心を持っている労働者にとっては、目先の労働時間や残業代はモノの数ではなく、高い評価を得てキャリア的に成功することこそが重要だということになるわけであり、「脱時間給」制度の対象として想定されている労働者もこのタイプが多いだろうと思われるところです。
もちろん「度を超えると家庭生活や健康との両立に影を落とすことになってしまう」わけであり、家庭生活をどうするかはまあ各家庭で決定すればいいと思うのですが健康を害するのは本人だけでなく周囲にもご迷惑なのでそれはやめさせる必要があるというのは過去何度も書いてきたとおりです。
ということで健康を害さない範囲で思う存分働けるようにした場合に生産性向上や労働者の満足度上昇がどうなるかという話ですが、とりあえずカネなんか要らないからもっと働かせてほしいという人に対して健康問題もないのに無理やり仕事をやめさせるのに較べれば、健康に害のないかぎりやりたいだけやれたほうが満足度が高いだろうことは容易に想像がつきます。
ただしそれで十分に満足かというともちろんそんなことはなく、労働者が求めるキャリア面での成功が実現してはじめて満足だ、という話になるのだとすれば、それはなかなか簡単な話ではありません。多大な労力を費やしたにもかかわらず思うようなキャリアが獲得できなかった場合は、あるいは徒労感からこんなことならあそこまで努力しなければよかったという話になるかもしれません(それでも最初から競争に参加できない、努力が許されないよりはマシだと思う人もいるでしょう)。とはいえ、現実には多くの人がなんらかの時点でキャリアの行き詰まりを意識せざるを得ない状況になるでしょうし、そこからはキャリアへの関心を失って評価より足元の残業代や労働時間に関心が移っていくのかもしれません。
つまり、全員が思い通りに成功することは(競争である以上)現実にはあり得ない以上は、正当に評価された結果として成功不成功が分かれるならまだしも納得しやすいという話になるということなのでしょう。阿部先生はこう論じておられます。

…好き嫌いで評価されると不満に思うのは、評価者の主観が評価結果を左右するからだ。学者の場合、論文は複数の査読者に評価され、ポストに就けるかどうかは教授会のメンバーに評価される。しかし通常は直属の上司が評価するはずであり、多面的評価がなされる職場は少ない。日経の調査結果でも「評価者が直属の上司しかおらず、評価が一面的」が人事評価に不満な理由として挙がる。
 評価が一面的だと、評価者と被評価者の間で生産性の向上には無益な行動(典型的にはゴマスリ)が起きるかもしれない。先の調査でも、評価を上げる取り組みとして「上司とのコミュニケーションを増やす」がトップに挙がっており、評価者との「信頼関係を築くことが高評価につながる」と分析している。

以前も書きましたが、競争のレベルが低ければ能力や成果の高低は比較的明らかで評価にも異論が入りにくいわけですが、ハイレベルな競争になると参加者の能力が高くかつ接近しているので、どうしても好き嫌いのような要因が入り込んでくるように(本当に入り込んでいるかは別として)思われてしまうのは避けがたいところではないでしょうか。これは難しいところで、たしかに学者の世界なら論文なりなんなりの業績を評価できる人というのが複数いるでしょうが、企業となるとそうもいかないわけです。もちろん多面評価は可能であり多くの企業が取り組んでいると思いますが、しかし評価される側としても自分の仕事や能力や成果がよくわかる人に評価してもらいたいはずで、となるとやはり直属の上司ということにならざるを得ないわけです。自分の仕事がよくわかっていない人に評価してもらうというのは、まあ高く評価してくれるならまだしも、低く評価されたときにおよそ納得いかないでしょう。
ということでここで重要なのは大きく差をつけないということだろうと思われます。まあポストは限られているのでライン長の座について権勢を振るえる人というのは限られざるを得ないわけですが、競争に負けて権勢を振るわれる側に回らざるを得なかった人についても、能力その他にそれほどの差がなかったのであれば、賃金などについてはあまり差をつけないというのが満足度の低下を防ぐ方策になるだろうと思うわけです。
なお、「脱時間給」の範囲を広げることについては、阿部先生は慎重に判断を避けられているようですが、私はまず間違いなく生産性向上に資するし経済全体にプラスになるだろうと考えています。単純な話で、キャリアをめぐる競争に参加して大いに努力を重ねて能力を伸ばし成果を増やそうとする人が増えるわけですから、その分は社会全体として人的資本の蓄積が進むことは明らかだろうと思うからです。もちろんあまり拡大しすぎると弊害が上回るという心配もあるかもしれませんが、とりあえず今議論されている範囲ならその心配はないでしょう。