福井秀夫氏 vs hamachan先生(1)

東洋経済」2月16日号が職場で回覧されてきました。特集は「雇用漂流」。その中で、規制改革会議の論客である福井秀夫先生と、hamachan先生こと濱口桂一郎先生のインタビュー記事が見開きで掲載されていて、あたかも「直接対決」の雰囲気がただよっています。なかなか、粋な演出と申せましょう(笑)。ちなみにこのご両所、ともに「政策研究大学院大学教授」という「同僚対決」であり、某半可通氏の言を借りれば「天下り教授対決」でもあります(爆)。
まず、福井氏の所論からみていきましょう。

 規制改革会議の第二次答申でも言及した「法と経済学」は、オーソドックスなミクロ経済学や公共経済学のプリンシプルを法分野に応用したものだ。この観点がない立法政策は労働者にも弊害をもたらす。
 労働者の権利を保護すれば、強化された権利を持つ労働者の雇用を使用者が忌避するため、正規雇用から非正規雇用へのシフトや労働者の雇い控えが起こる。保護しようとすることが、かえって当の労働者を過酷な地位に押しやり、たまたまよい職を得た人以外の潜在的労働者、若い既得権のない人々を不幸にしかねない。格差は助長される。これは、いわばニュートンの力学法則のようなもの。権利は強化するほどその保持者の保護になるという考え方は、よほどの特異な前提をとらない限り成り立たないものであり、圧倒的に多くの事象を説明できる原理的ロジックは、学術的に確立している。
 自由主義秩序の基本にあるのは当事者の意思の尊重。その修正が必要なのは「市場の失敗」があるときだけだ。それは、公共財、外部性、取引費用、不完全競争、情報の非対称性の五つ。労働市場は使用者、労働者とも同種同等の選択肢が多数存在するので、ほぼ情報の非対称性を考慮すればよい。行政の最も重要な役割は劣悪な労働条件を隠したり契約を守らない悪徳企業を規制し、情報公開させることだ。
 労使はむろん対等ではないが、転職市場さえ大きければ、労働者も会社に対してモノがいえる。個別の会社でしか通用しないスキルを強調する議論があるが、そうしたスキルは多くないし、仮にあっても解雇規制はそれを維持する適切な手段ではない。解雇規制がむしろ転職市場を縮小させるというパラドックスを認識すべきだ。
 労働者派遣の規制緩和については、派遣への代替を加速させるという議論もあるが、それを悪いと決め付けることは一面的だ。現在は雇用申込義務があるため、期間直前に契約を打ち切ることが合理的になる。その規制がなければ、正社員としては評価できないが、派遣で働いてもらいたい人材を企業は長期間雇用できる。正社員になれず路頭に迷うのと、派遣社員として働き続けるのとどちらがいいのか。労働者の人権にとっても自明の理だ。
週刊東洋経済第6127号から、以下同じ)

まず、法と経済学の何たるかについてですが、大阪大学教授の常木淳氏の次のような指摘が非常に参考になります。

 経済学に対して関心を持っている法学者の間にも,この種の誤解が後を絶たないのは,いくつかの理由が考えられる。第一に考えられるのは,法学者にとってとりあえず念頭に置かれる経済学が,アメリカの特にシカゴ学派による「法と経済学」であることによる。コースを始祖として,ポズナー,エプスタイン,イースターブルックらに代表されるこれら「法と経済学」派の主張は,平均的な経済学者と違って,自らの規範的立場を正面から提示する点に大きな特色がある。ここでは,英米のコモン・ローを支える法的判断基準が効率性によるべきこと,また事実そうであったことが主張され,古典的コモン・ロー領域への制定法その他に基づく修正的介入を,コモン・ローの内在的な効率性を覆すものとして厳しく限定すべきことが主張される。本稿は,これらシカゴ学派の主張の是非を評価する場所ではないが,この運動は,第一にアメリカの法哲学におけるリアリズム論争への一つの回答を与え,また,レーガノミックス以後の同国における保守的政治思潮の一翼を担ったという点において,優れて法哲学的,ないしは政治思想的運動であった,と評すべきであり,そのような立場を選択するか否かは,法律家であると経済学者であるとを問わず個人の価値観・人生観によるものであって,学問としての経済学の特性とは関連性を持つものではない点だけを指摘しておきたい。
(常木淳(2001)「不完備契約理論と解雇規制法理」日本労働研究雑誌491号、http://db.jil.go.jp/cgi-bin/jsk012?smode=dtldsp&detail=F2001110076&displayflg=1

前後はぜひ全文にあたっていただくとして、これをふまえると、福井氏のいわゆる「法と経済学」は、まさに「平均的な経済学者と違って,自らの規範的立場を正面から提示する」ものと申せましょう。常木氏は実はこの論文で他の経済学者による不完備契約理論を用いた解雇規制の正当化に対して入念かつ執拗に批判を加えているのですが、その常木氏が福井氏のような立場に対して「個人の価値観・人生観によるものであって,学問としての経済学の特性とは関連性を持つものではない点だけを指摘しておきたい」と、一線を画す姿勢を示していることには注意が必要でしょう。
さて、それに続く部分ですが、

 労働者の権利を保護すれば、強化された権利を持つ労働者の雇用を使用者が忌避するため、正規雇用から非正規雇用へのシフトや労働者の雇い控えが起こる。保護しようとすることが、かえって当の労働者を過酷な地位に押しやり、たまたまよい職を得た人以外の潜在的労働者、若い既得権のない人々を不幸にしかねない。格差は助長される。これは、いわばニュートンの力学法則のようなもの。権利は強化するほどその保持者の保護になるという考え方は、よほどの特異な前提をとらない限り成り立たないものであり、圧倒的に多くの事象を説明できる原理的ロジックは、学術的に確立している。

hamachan先生には「初級経済学教科書嫁厨」と言われそうな論調ですが、ニュートン力学やら原理的ロジックやらは私のような素人には手に余るのでそれはそれとして(ニュートンが怒りそうな気はしますが)、福井氏のこの指摘には、実務実感にきわめてよく一致する部分があることも事実です。たとえば、年金財政の事情で高齢者雇用を保護した(高齢法改正による雇用確保措置の義務化)結果として若年者の雇用機会が制約され、若年雇用問題の深刻化を招いたことなどが典型でしょう。また、福井氏が後段で述べている

 労働者派遣の規制緩和については、派遣への代替を加速させるという議論もあるが、それを悪いと決め付けることは一面的だ。現在は雇用申込義務があるため、期間直前に契約を打ち切ることが合理的になる。その規制がなければ、正社員としては評価できないが、派遣で働いてもらいたい人材を企業は長期間雇用できる。

というのもまことに実務実感に合っています。人事管理の部外者からみれば、4年も5年も続けて派遣されているなら正社員にすればいいじゃないか、と思えてしまうのでしょうが、人事屋からみればやはり「定年まで雇い続けなければならない正社員」と「当面なるべく長く働いてはほしいが、経営悪化の際には打ち切ることもできる派遣社員」とはまったく異なるものです。で、結局は規制に抵触しそうになると、企業も派遣社員もまだまだこのまま派遣されてほしい、働きつづけたいのに、泣く泣く打ち切っているというのが現状なのです(この後の、労働者の人権にとっても云々というのはよくわかりませんが)。
さて、福井氏の「本丸」であり、氏が随所で口を極めて罵倒している正社員の解雇規制についても、それが非正規雇用増加の一因(ただし、福井氏はいかにも過大評価しているようには思いますが)ではあるかもしれません。ただし、次の主張はいかがなものかと。

 自由主義秩序の基本にあるのは当事者の意思の尊重。その修正が必要なのは「市場の失敗」があるときだけだ。それは、公共財、外部性、取引費用、不完全競争、情報の非対称性の五つ。労働市場は使用者、労働者とも同種同等の選択肢が多数存在するので、ほぼ情報の非対称性を考慮すればよい。行政の最も重要な役割は劣悪な労働条件を隠したり契約を守らない悪徳企業を規制し、情報公開させることだ。

「劣悪な労働条件を隠したり契約を守らない悪徳企業を規制し、情報公開させる」ことが大切だというのはいいのですが、「労働市場は使用者、労働者とも同種同等の選択肢が多数存在するので、ほぼ情報の非対称性を考慮すればよい」というのは納得できません。たとえば、たしかに全国レベルでみれば「同種同等の選択肢が多数存在」するといえるかもしれませんが、地域レベル、たとえば市町村、あるいは都道府県レベルでも格差が大きく、選択肢が偏在しているのが現実ではないでしょうか。採用あるいは就職のための転居に要する費用を取引費用といえるかどうかはわかりませんが、いずれにしても勤務地の遠近、とりわけ転居の必要性の有無が異なれば「同種同等」とはなかなか言いにくいのではないでしょうか。
そして、

 労使はむろん対等ではないが、転職市場さえ大きければ、労働者も会社に対してモノがいえる。個別の会社でしか通用しないスキルを強調する議論があるが、そうしたスキルは多くないし、仮にあっても解雇規制はそれを維持する適切な手段ではない。解雇規制がむしろ転職市場を縮小させるというパラドックスを認識すべきだ。

ここが実は大問題なわけで、「そうしたスキルは多くない」とあっさり片付けていますが、本当にそうなのかどうかは大いに疑問です。少なくとも、転職の際に収入が低下するケースが相当あるという事実は、「そうしたスキル」がそれなりに存在していることの裏付けのように思われます。あるいは福井氏は、転職にともなう収入低下は、もっぱらたとえば年功賃金のような制度的な問題のゆえであると考えておられるのかもしれません。だから、職種別賃金とか横断的労働市場とかいう発想になるのでしょう。しかし、一見年功的に見える賃金であっても、それなりに「そうしたスキル」を企業内労働市場で適切に評価した結果(少なくともそれに近いもの)であれば、転職にともなう収入低下は「そうしたスキル」への評価が剥落した結果と考えられるでしょう。現実はこれら両者が混在しているのでしょうが、福井氏がいうほど簡単に「多くない」とはおよそ言えないのではないか、というのが私の実感です。なお、「解雇規制はそれを維持する適切な手段ではない」というのはある意味そのとおりで、解雇規制すれば「そうしたスキル」が維持できるとは思えません。「そうしたスキル」の維持(および養成)に有効なのは、たとえば長期雇用であり、職能給制度であって、解雇規制は「長期雇用するから「そうしたスキル」を安心して蓄積してください」という約束しておきながら、それを反故にするような機会主義的な企業から労働者を保護するためのものにすぎません。
「解雇規制がむしろ転職市場を縮小させるというパラドックス」についても、たしかに、転職市場が大きいことは、労働者は常に何らかの理由で転職を迫られる可能性があるわけですから、労働者にとってもメリットがあるでしょう。ただ、解雇規制の撤廃して解雇が頻発すれば(本当にどれほど頻発するかについては別問題で、福井氏はここでも過大評価があるような気はしますが)、たしかに転職市場は大きくなるでしょうが、解雇頻発にともなう混乱や生産性低下などの不経済を勘案してもなお転職市場拡大のメリットのほうが大きいかどうかは、これまた疑問といえましょう。たしかに、ありがちな議論として「低付加価値分野から高負荷価値分野への労働移動」が必要だ、というのはそうかもしれませんが、解雇規制を緩和したらそれが実現すると考えるのもいかにも単純な考え方に過ぎるような気がするのですが、そうでもないのでしょうか。