福井秀夫氏 vs hamachan先生(2)

きのうのエントリに続いて、きょうはhamachan先生の所論をみてみましょう。

 特定の労働者を保護することによって、当の労働者自体にマイナスの影響が出ることはありうる。保護対象外である労働者との格差を生むというのも、ある程度は正しいだろう。解雇規制に関する判例法理が形成されたのは1970年代。当時は正社員が中心で、パートやアルバイトなどの非正規社員は補助的な労働力だった。正社員の雇用を守るために非正規社員に先にやめてもらうということも、社会的な妥当性はあった。それが90年代以降、非正規社員が著しく増加し、社会状況が変化した。それに見合う形で、正社員の解雇規制を緩和し、非正規との調和を図っていくことは必要だろう。
 それでは、労働者保護が一切不要かといえば、それは違う。労働者が使用者から一方的に「クビだ」と言われることに対して、何らかの保護はあるべきだ。
 ごく単純な労働でないかぎり、起こりうるすべてを契約に書き尽くすことはできない。その中身が日々決まっていくのが労働契約の特徴だ。そもそも労働者と使用者の立場は対等ではない。こうした現実においては、労使の個別契約ですべて決めるのではなく、問題解決のための集団的、社会的な枠組みが必要だ。
 規制緩和論者には、「その会社が嫌なら辞めて他に転職する」というエグジット(出口)があれば労使関係は対等だ、という考え方が強い。だが、労働力という商品は特殊であり、同じ職場で長く働くことによってその性能が高まっていく。ある会社に継続して勤め、能力が高まった労働者は、いったんエグジットしてしまうと、まったく同じ価格で売ることは非常に困難だ。最終的に転職するにせよ、現在の職場で一定のボイス(意見)を発することが認められるべきだろう。
 労働者派遣については、労働力の需給調整の機能を果たしていることは事実だが、労働者を雇用する会社と使用する会社が分離しているために弊害も多い。特に、登録型の実態は限りなく職業紹介に近いから、派遣先の使用者責任を強化すべきだ。制限期間を超える長期派遣の場合には、自動的に直接雇用とする「みなし」規定を設けることも検討課題になる。
週刊東洋経済第6127号から、以下同じ)

さすがに元労働官僚(失礼、現役労働官僚でしたか)だけあって、全体的には福井氏の所論と較べると私の実務実感に近い主張になっています。
さて、まず注目されるのが次のくだりです。

 解雇規制に関する判例法理が形成されたのは1970年代。当時は正社員が中心で、パートやアルバイトなどの非正規社員は補助的な労働力だった。正社員の雇用を守るために非正規社員に先にやめてもらうということも、社会的な妥当性はあった。それが90年代以降、非正規社員が著しく増加し、社会状況が変化した。それに見合う形で、正社員の解雇規制を緩和し、非正規との調和を図っていくことは必要だろう。

hamachan先生と解雇規制緩和という組み合わせにちょっと意外感があり、具体的にはどういうことをお考えなのだろうとhamachan先生のブログをサルベージしてみましたが、なにしろ膨大かつ充実したブログなので発見できませんでした。ただ、この文脈から読めば、解雇回避努力の一部、つまり正社員の解雇を回避するために有期契約社員の雇い止めや派遣の打ち切りを先行させなさい、という部分を見直すべきだ、ということだと思われます。
で、実はこれは規制緩和論者、たとえば八代尚宏先生の主張と同じなんですね。ただ、八代氏の議論は、企業にしてみれば、いかに経営が厳しいとはいっても、フレキシビリティを確保するために非正規社員は一定程度確保しておきたいだろう。非正規社員が一部基幹的業務に進出している場合にはとりわけそうなってきているだろう。本当に経営再建を考えるのであれば、正社員と非正規社員との適正なバランスは維持されるべきで、したがって正社員を解雇規制において優遇することは適当でない、企業が同等に必要としているのに区別するのはそもそも不公平ではないか、というものだったと記憶しています(ウラを取ったわけではないので自信なし)。それに対して、hamachan先生は、非正規が必ずしも補助的労働力ではなくなってきている(これは八代氏の指摘とも近い)ということに加えて、「社会的な妥当性」という言葉を使っています。これはおそらく、企業にとっての労働力として「補助的」だというにとどまらず、家計の担い手としての労働力としても「補助的」ではないケースが増加しているのではないかという問題意識を反映しているのでしょう。これは経営の効率を重視する八代氏の論調とはかなり異なるわけですが、結論としては解雇規制の一部緩和という同じものになっているのが興味深いところです。

 それでは、労働者保護が一切不要かといえば、それは違う。労働者が使用者から一方的に「クビだ」と言われることに対して、何らかの保護はあるべきだ。
 ごく単純な労働でないかぎり、起こりうるすべてを契約に書き尽くすことはできない。その中身が日々決まっていくのが労働契約の特徴だ。そもそも労働者と使用者の立場は対等ではない。こうした現実においては、労使の個別契約ですべて決めるのではなく、問題解決のための集団的、社会的な枠組みが必要だ。

現実には、営業部長として高額のオファーでヘッドハンティングしてきたのにさっぱり営業成績が上がらない、といったケースのように、「一方的に「クビだ」と言われ」ても致し方ないケースもあるわけですが、一般的な(なにが一般的なのかという問題はありますが)労働者についていえば、たしかに「なんとなく気に食わない」とかいった理由で一方的に「クビだ」といわれるようなことに対する保護は必要でしょう。このあたりはインタビュー記事なので語り手の意を尽くしていないのだと思われます。
「起こりうるすべてを契約に書き尽くすことはできない」というのはまったくそのとおりで、たしかになるべく契約に書き込むことが望ましいわけではあるにしても、福井秀夫氏が期待するほどに具体詳細な契約をつくるのは無理というものです。で、それに対して、法による実体規制ではなく、労使間の手続によって対処していこうという考え方には大いに賛同するところです。もちろん、それではどのような手続がよいのか、というのは議論があるところで、これに関してはhamachan先生はなかなか大胆な提案を随所で示しておられるところですね。

 労働者派遣については、労働力の需給調整の機能を果たしていることは事実だが、労働者を雇用する会社と使用する会社が分離しているために弊害も多い。特に、登録型の実態は限りなく職業紹介に近いから、派遣先の使用者責任を強化すべきだ。制限期間を超える長期派遣の場合には、自動的に直接雇用とする「みなし」規定を設けることも検討課題になる。

きのうのエントリで書いたように、最後の一文は人事屋からみればナンセンスですが、その前までは頷けるものがあります。ただ、hamachan先生がどうお考えなのかはわからないのですが、あまりに派遣先責任を強調すると、派遣が使われなくなる可能性があることには注意が必要だと思います。もちろん、一部にいるような登録型派遣は悪い働き方だから殲滅すべきだという見解の人はそれでいいのでしょうが、殲滅された結果失業者が増えるのではかえって困ると考えるのが現実的な思考というものだと思います。