清家篤先生

有力な労働経済学者である慶応大学商学部教授の清家篤先生が、一昨日の日経新聞「領空侵犯」欄に登場され、審議会など政府の政策検討に参画するメンバーの人選に苦情を呈しておられます。

 ――日本は政策作りで専門家をうまく生かし切れていないとお考えだそうですね。
 「政府の審議会や諮問会議、研究会などがその現れでしょう。これらは専門家の意見を聞く場であるはずです。民主主義社会では国民の代表である政治家が、専門家の意見を聞き、最終的な意思決定をします。ところが最近はそうした会議に畑違いの有識者はいても本当の専門家があまりいないケースが目立ちます」
 「例えば安倍政権の目玉施策になるはずだった教育再生。この有識者会議に確かに教育関係者は入っていますが、教育学や教育心理学、教育社会学などの専門家がほとんどいません。本来ならそういう人たちが中心になるべきなのではないでしょうか」
(平成19年9月24日付日本経済新聞朝刊から)

そういえば、清家先生ご専門の労働問題でも「今後の労働契約法制の在り方に関する研究会」は、労使関係や人事労務管理に非常に大きな影響の見込まれる問題であるにもかかわらず、メンバーは法律家ばかりで労働経済学者や経営学者がいないという偏った構成になっていました。もっとも、いずれもその道の専門家でしたので、「畑違いの有識者」はいませんでしたが。あるいは、清家先生ご自身が参加された会議体では「働く者の生活と社会のあり方に関する懇談会」のメンバーはたしかに(労働という面からいえば)「畑違いの有識者」が複数含まれているようです。
それはそれとして、まあ、教育再生はかなり特殊な事例なのではないでしょうか。「教育学や教育心理学、教育社会学などの専門家」の意見を聞いてきた結果が現状のていたらくなわけで、教育研究のインサイダーたちは相当程度イデオロギッシュに凝り固まったメンバーが多いように思われます(いいがかりです)し、外部の目から検討することが必要だという判断で多様な「有識者」を集めたのではないかと思います。

 ――しかも日本ではそうした審議会などが政策を決定している面があります。
 「政治家が本来やるべき仕事を丸投げしているのです。政府の規制改革会議は政治家が規制緩和について専門家の意見を聞く場ではなく、規制緩和の推進を目的とした場になっています。政策決定まで委ねてしまうのは本末転倒でしょう」
 「官僚との関係でも政治家が十分に責任を果たしていないところがあります。官僚は行政の各分野の専門家で政治家はその助けを借りて行政を進めます。専門家である官僚が自分の分野が重要だと考えるのは当然だし、また、そうでなければプロにはなれません。そうした中、それぞれの分野に軽重をつけるのが、素人の良識を持った政治家の仕事でしょう。ですから『縦割り行政はけしからん』などと言う政治家は自らの役割を忘れているとしかいえません」

族議員」がけしからん、という議論もわかるのですが、政治家に素人を強いるのはいささか気の毒というか、失礼な感があるのですが。政治家は政策を学ばなくてもいいということだとすると、それはちょっと…。
また、規制改革会議についていえば、少なくとも小泉内閣では規制緩和の推進に強力に取り組むべしとの大方針は政治から示されていたわけで、そのうえで具体的な施策を専門家が検討立案し、それを閣議決定で政治がオーソライズするという手続きを踏んでいましたから、必ずしも「本末転倒」との批判はあたらない部分もあると思います。
なお、「審議会などが政策を決定している面があります」に関しては、むしろ現実に政策を決定しているのは審議会の事務局である官庁であり、審議会のメンバーはおおむね官庁の意向に沿った考え方を持つ人が選ばれているというのが実態に近いのではないかと思うのですが。

  • (9月27日追記)この部分の記述について、hamachan先生から「少なくとも労働関係の審議会に関していえば、労使の委員は労使団体の推薦でそのまま決まっており、「官庁の意向」で決めているわけではない」とのご指摘をいただきました(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_1dcd.html)。まことに適切な指摘であり、この部分の記述は「審議会のメンバーは、労働関係の審議会などの例外を除くと、おおむね官庁の意向に沿った考え方を持つ人が選ばれているというのが」と修正したいと思います。なお労働関係審議会の三者構成については、以前のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20070627)でも言及しています。ただし、労働関係でも、審議会に先立って開催され、政策の方向性を提言する「研究会」(研究者のみで構成されることが多い)では、類似の状況もあるように感じます(もっとも、労働関係の研究者も教育関係と同様、イデオロギッシュに凝り固まっていて現実的・建設的な議論ができない人が多いので、そちらの制約が大きいという事情もありそうですが)。余談ながら、労働政策審議会労働条件分科会の奥谷禮子委員(使用者団体の推薦により就任している人です)の発言(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20070116で紹介しています)について、国会で民主党の川内議員が厚生労働大臣を追及するという珍妙な事態が起きたことがあります(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20070209で紹介しました)が、これはつまるところ、川内先生は他の審議会と同様、労働政策審議会の委員も官僚が選んでいると思っておられるということでしょう(まあ、審議会委員の辞令は大臣の名前で出ますので、形式的には大臣に任命責任があるわけではありますが)。

 ――すると最近の官僚批判の風潮はおかしいと?
 「行き過ぎがあるのではないでしょうか。例えば、縦割りの弊害をなくすため、各役所が独自に人材を採用するのではなく、内閣で一括採用しようという話がありますが、おかしなことです。自分はこの仕事をしたいという強いこだわりを持った人たちこそ、その分野での能力を磨けます。どの官庁でもいいからといった人では、国民が困るのではないでしょうか」
 「先進国の社会は高度で複雑化しています。そこでは専門家がますます重要なのは言うまでもないでしょう。社会保険庁などに見る公務員の問題は専門家が専門家としての責任を果たしていなかったことに原因があります。プロ意識の欠如が問題なのに、この国はプロでないものをどんどんつくったり、それに重きを置こうとしたりしているような気がしてなりません」

このへんは人事管理的に興味深いところで、民間企業では必ずしも業務分野を特定して募集・採用を行っているわけではありません。まあ、企業を選ぶ段階で相当に絞り込まれているといわれればそれはそうなのですが…。ただ、官庁においても他省庁の政策や仕事にも広い視野や知識を持つ人は一定程度必要でしょうから、そういう意味で内閣一括採用というのも考え方としてはありうると思います。もちろん、省庁間交流人事でやれば十分という考え方もあるでしょうし、そこはいろいろ議論があるでしょう。それこそ竹中センセイのように、あらゆる問題でそれなりの意見を吐ける官僚だっていれば便利かもしれません(使い物にならないかもしれませんが)。
高度で複雑な社会で専門家の役割が重要なことはまったくそのとおりだろうと思います。ただし、専門家は国民のほとんどはすべてを理解することができない専門的な事項を扱って政策に関与するわけですから、国民が信頼できる存在であることが不可欠でしょう。たとえば原子力技術の専門家とか、それこそ教育学の専門家とかは、国民から「専門家なのだから、すべてを任せておいても大丈夫」という十分な信頼を勝ち得ているのでしょうか?
むしろ、プロ意識の欠如が問題であるがゆえに、専門家のプロ意識を一種ガバナンスするために「プロでないもの」の存在が必要とされているという面があるのではないでしょうか。もちろん、それがどんどん必要となるというのは残念な事態であるということに違いはないわけですが。