ベッカー「人的資本」(6)

またしても全文引用。まことにわかりやすい説明です。

 非正規労働者の比率は高まったとはいえ、大企業の正社員について終身雇用の原則はまだ崩れていない。これに対して、市場環境や産業構造の変化にすみやかに対応するには、正社員の雇用も、もっと流動化すべきであるという議論が、とくに構造改革との関連で主張されるようになっている。正社員であっても、経済の衰退部門から成長部門へすみやかに労働力を移すことこそ、持続的成長には欠かせないということだ。
 たしかに個人がすでにもっている生産能力については、それを最も有効に活用できる企業・産業に再配置することが資源配分の観点からは重要だ。能力を活用できない企業で窓際族になっているよりも、必要とされる企業に転職できれば、本人も幸せだろう。
 しかし一方で、これまで見てきたように、人的資本を高めるための投資(訓練)には、雇用の安定性が望ましい。とくに企業特殊的な生産能力を高める投資については、その費用を負担する企業にとって、訓練期間だけでなく、その後の投資収益回収の期間も含めて従業員を長期雇用できることが必要条件だ。このことは費用の一部を負担する個人にも当てはまる。
 とりわけ個人にとって企業特殊的な人的資本投資を受ける場合、将来の雇用保証は欠かせない。その企業でしか役に立たないような仕事能力を身につけさせられた以上、嫌でもその企業で働かざるを得ないからである。企業特殊的な生産能力を身につけることによって、会社を変わることで失うものも大きくなる。その企業で訓練終了後も長期間働けるという約束なしに、企業特殊的な人的資本投資を受けるのは危険だ。
 逆にいえば、雇用流動化が避けられないような状況になれば、個人にとってはどこでも役に立つような、一般的生産能力を高められる人的資本投資が重要になるということである。そうした種類の投資のために、個人が費用を進んで負担する合理性も高まる。
 いずれにせよ、人的資本理論からは、もし企業にとって企業特殊的な生産能力が競争の鍵を握るのであれば、長期雇用の保証が不可欠ということになるし、個人が流動化に備えたければ自ら費用を負担して一般的生産能力を高めるべきだ、ということになる。高度化する産業社会においては、この両方が重要になるだろう。その意味でも『人的資本』は、これからの時代における雇用の安定性と流動性の両面を考える際に、欠かせない政策含意を与えてくれる。
(平成19年5月30日付日本経済新聞朝刊「やさしい経済学」から)

そのとおりで、解雇規制の緩和を訴える規制緩和屋さんは、つまるところ企業に対して「長期にわたって企業特殊的熟練を形成し、それを競争力につなげる」という人材戦力を妨げる(不可能ではないけれど難しくなる)、ということをおっしゃっておられるわけで、そこのところは十分にお考えいただかないと困ると、まあ一介の人事屋である私などは思うわけです。