ベッカー「人的資本」(4)

きのうの続きです。

 このように、投資の費用と収益を企業と個人が分け合うという『人的資本』の描く枠組みによって、そのときどきの生産水準と賃金が必ずしも一致しないことが経済合理的に説明できる。同じ潜在能力を持つ個人であっても、訓練中かそうでないかで、賃金水準は異なる。雇用期間全体で個人の受け取る賃金総額とその生み出す生産の合計が一致すればよいのだ。
 これを個人の職業人生において、訓練を受けなかった場合の生産能力と、受けた場合の賃金との関係で見ると、訓練を受けている期間中は、それを受けなかった場合の生産能力よりも低い賃金であるが、訓練終了後は、訓練を受けなかった場合よりも高い賃金をもらうことになる。訓練を受けることによって生産能力が高まり、後でより高い賃金を受け取ることができるようになるわけだ。若いときに就職し、企業内訓練を受けながら一人前になっていくとすれば、若いときには相対的に安く、年をとると高くなるという、あの年功賃金カーブの形状がそれである。
 また以上の説明は、人的資本投資を受けた個人が、訓練期間中から訓練後の投資収益回収期間まで、長期にわたり同一企業で働くことを前提にしている。人的資本投資の費用と収益を企業と個人で分け合うには、長期雇用が必要であり、それは具体的には終身雇用制度といわれるような雇用慣行となって現れる。
 つまり年功賃金、終身雇用には経済合理性があり、だからこそ、程度の差こそあれ世界中でそれらが観察されるのである。そしてそれが最もよくあてはまったのが、従来の日本的雇用制度であったことは間違いないだろう。
(平成19年5月28日付日本経済新聞朝刊「やさしい経済学」から)

だから、パート労働法改正でもあれだけの議論があったわけで。短絡的に「同一労働同一賃金」を叫ぶ人には、こうした事情を十分理解しておいてほしいものです。