問題は貧困なのか格差なのか

通常国会冒頭の安倍首相の施政方針演説に対して、一部野党から「『格差』ということばが出てこなかった」などと批判の声が上がっていますが、塩崎官房長官は「格差」ではなく「新たな貧困」を政策課題としたいとの意向を示したそうです。これに対して、選挙を控えた参議院サイドからは反発の声が上がったのだとか。

…24日の政府・与党協議会では塩崎恭久官房長官が格差問題を「新たな貧困」と発言したことをめぐり、言い換えに反発した与党からいっせいに批判を浴びる一幕があり、同問題をめぐり神経質になっている様子を反映した。
 塩崎氏は協議会で「民主党が言うように格差ととらえるのではなく『新たな貧困』ととらえたい。成長戦略を推し進め、国民生活を底上げしていきたい」と主張した。
 これに対し、自民党片山虎之助参院幹事長が「それを格差と言うんだ」と反論。青木幹雄参院議員会長も「格差という言葉を使わなければ『実際には格差が存在するのに政府には問題が見えていない』と国民に批判される」と指摘し、公明党北側一雄幹事長らも同調した。
 塩崎氏は「格差問題から逃げずに真正面から取り組む」と述べ、その場を収めたが、その後の記者会見では「働いても報われない新たな貧困の問題がクローズアップされている」と改めて強調した。
(平成19年1月25日付毎日新聞朝刊から)

官邸と与党の間で「格差」に対する考え方がかなり異なっているようです。
「貧困」がよくないというのはほぼコンセンサスでしょうが、「格差」についてはいろいろな考え方があるでしょう。そもそも貧困と格差とは別の問題で、みなあまねく平等に貧しいという「乏しきを分かち合う」という状況もあるでしょうし、格差は大きいけれどみなそれなりに豊かだという状況もあるでしょう。選挙を控えた政治家としては「平等でかつ豊か」という美しい絵を画きたいかも知れませんが、それはかなり実現困難な課題です(平等も程度によっては「悪平等」と考える人もいるでしょう)。結局のところ、「平等だが貧困」と「不平等だが豊か」の程度とバランスの問題になるはずです。
これは私のまったくの印象ですが、世間にはこれに対する考え方として大きく分けて3種類あるような気がします。
第一の類型は、とにかく格差そのものが悪いもので、仮に全体の平均が低下したとしても格差を小さくすべきだという考え方です。隣人が年収800万円、自分は年収500万円という状態より、隣人が600万円、自分は450万円という状態のほうが正しいという考え方で、実際、幸福感を感じるかどうかは絶対水準だけでなく相対水準にも強く依存するという調査結果も多数あるようです。所得に限らず、たとえば教育関係者などにはこうした公平重視指向が強くみられるような気がします(全員が100点を取れるように学習指導要領の内容を減らすとか、かつてあった「学習指導要領を超えた内容を教えてはいけない」とか)。
第二の類型は、これとは正反対に、競争の結果として格差が出るのは当然であり、競争の機会均等と公正、およびセーフティネットが確保されていて、常に成功するチャンスがあればそれでよい(競争を通じて当然に全体の水準は向上する)、という考え方で、これは規制改革論者などに典型的にみられる論調といえましょう。
もう一つはこれらの中間と言えるでしょうか、全体の底上げがはかられていれば格差の拡大は問題ない、という、ロールズなどの考え方に近い(のではないかと思うのですが)ものです。規制改革論者は浮き沈みの激しい社会を好むのに対し、この論をとる人は一定の安定を重視するように思われます。実は企業経営者などにはこの考え方を好む人が多いのではないかというのが私の印象です。
そこで、安倍首相の施政方針演説がどのような「格差」観に立っているか、首相官邸のホームページに掲載された演説録で推測してみましょう。これを読むとたしかに「格差」の語はありません。

…私は、勝ち組と負け組が固定化せず、働き方、学び方、暮らし方が多様で複線化している社会、すなわち、チャンスにあふれ、誰でも何度でもチャレンジが可能な社会を創り上げることの重要性を訴えてまいりました。様々な事情や困難を抱える人たちも含め、挑戦する意欲を持つ人が、就職や学習に積極的にチャレンジできるよう、今般取りまとめた「再チャレンジ支援総合プラン」に基づき、全力をあげて取り組みます。
 具体的には、就職氷河期に正社員になれなかった年長フリーターなどに対し、新たな就職・能力開発支援を行うとともに、新卒一括採用システムの見直しなど、若者の雇用機会の確保に取り組みます。パートタイム労働法の改正により、仕事に応じて正社員と均衡のとれた待遇が得られるようにするとともに、正規雇用への転換も促進します。パートタイム労働者も将来厚生年金を受けられるよう、社会保険の適用を拡大します。経済的に困難な状況にある勤労者の方々の底上げを図るべく、最低賃金制度がセーフティネットとして十分に機能するよう、必要な見直しを行うとともに、自立の精神を大切にするとの考え方の下、働く意欲を引き出すような就労支援を図ります。
http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2007/01/26sisei.html

「再チャレンジ」とか「勝ち組と負け組が固定化せず」というのは規制緩和論者の考え方を連想させますが、「経済的に困難な状況にある勤労者の方々の底上げ」といった表現はどちらかというと第三の類型を連想させます(最賃がセーフティネットとして機能するよう見直す、というのは第二の類型に近いかもしれませんが)。
塩崎官房長官はといえば、「成長戦略を推し進め、国民生活を底上げしていきたい」ということですから、これは第三の類型に入りそうです。
これに対し、片山氏が「それを格差というんだ」と発言したということは、第三の類型には批判的で、第一の類型に近い考え方を示したということでしょう。青木氏も北側氏もこれに同調したようですので、与党は第一の類型一色です。もちろん、与党(とりわけ参院の片山氏や青木氏)は選挙を強く意識しているのでしょうから、これは結局のところ、与党幹部の面々は国民の意識も大方は第一の類型であると考えているということでしょう。これはすなわち、たしかに貧困問題は無視できないにしても、救済が必要なほどの貧困に陥っている人はそれほど多数ではなく、そこそこ豊かだけれどもっと豊かな人がいるのが面白くないと思っている人のほうがはるかに多いと判断している、ということになりそうですが、実態は本当にそうなのでしょうか。選挙を控えた政治家は有権者の意識には敏感でしょうから、けっこう当たっているのかもしれませんが。
もちろん、選挙目当てですから、現実的でなくとも「格差は小さく、かつ平均水準も向上する」という絵を画きたいというのはあるでしょうし、むしろ「『格差』ということばがなかった」などと批判している野党のほうが、当面の施政に責任のない分だけ、無責任に非現実的な理想を語っている可能性が高いかもしれません。
もちろん、それが実現困難であっても目指すべき姿であることは間違いないわけですから、こうした議論そのものが悪いということはないでしょうし、むしろいろいろと議論すべき問題でしょうが、選挙目当てに空手形を乱発して後で困ることのないようにしてほしいものです。