「自立したキャリア」とはなにか

昨年、「生産性新聞」11月15日号の「ワークアイ」というコーナーに寄稿した「「自立したキャリア」とはなにか」というエッセイを、労務屋ホームページに掲載しました。なんだか知らんが、また2ヶ月も遅れてしまいました。
例によって「『自立』ということば嫌い」ネタ(それと日経嫌いネタでもあるか(笑))のエッセイなのですが、編集部から「自立したキャリア」とはなにか、というタイトルで書いてくれと頼まれて書いたのに、見出しは全然違うものをつけてくれたので、なんだかマヌケな感じになってしまったのでありました。また、そのうち気が向けば紙面のコピーも載せようかと思います。
というわけで、ここにも以下に全文転載しておきます。


「自立したキャリア」とはなにか


編集部から与えられたテーマは「自立したキャリア」とはなにか、というものだ。だが、のっけからで申し訳ないが、私はこの「自立」ということばがあまり好きではない。
もっとも、常識的には、「自立」といえば職につき、親の経済的支援なしに生活していくことを指すだろう。これについては、私ももちろん大切だと思うし、嫌いでもない。
ところが、この10年くらいというもの、「自立」ということばにはやや異なるニュアンスがこめられることが増えているように感じる。たとえば、日本経済新聞が2003年から2004年にかけて連載した「働くということ」という特集記事があり、単行本にもなっているが、そのなかで「自立」ということばがどう使われているかをみてみよう。
たとえば、2003年7月15日朝刊の「働くということ」の見出しは「依存脱却 自立に備え」となっていて、本文をみると、「会社にもたれず、懸命に自立を探る」などと書かれ、こんな事例も紹介されている。
「…「会社の辞め方講座」。今年4月、営業支援ソフト開発、ソフトブレーンの高橋美和(23)は新入社員研修の冒頭のプログラムに面食らった。退職の申請の仕方や転職の仕方を丁寧に説明、転職支援制度まで用意してあるというのだ。/発案者は中国人会長の宋文洲(40)。「会社と社員は平等。能力に応じて会社を移ればいい」と社員に即戦力としての自立を促す。」
あるいは、2004年1月23日朝刊の「働くということ」の見出しはずばり「自立と歯車」だ。「自分が主役の創業者から巨大企業の「歯車」へ逆戻り。」「組織を離れ自立して生きるか、歯車として働くか。」という記述が踊る。
これらに共通しているのは、「自立」とは「会社に依存しない」ことであり、「転職、起業、独立できる」ことだ、というメッセージだろう。率直なところ、「自立したキャリア」ということばにも、私はこれと共通したものを感じる。
しかし、こうした「自立したキャリア」を生涯通じて歩むことができるのは、おそらくは才能と幸運に恵まれた例外的な人にかぎられるのではないか。もちろん、自立したキャリアを歩むことはすばらしいことだし、そういう人が増えることは望ましいことだ。しかし、多くの働く人にとってはそれはあまりに高いハードルだろう。ところが、2003年5月27日朝刊の「働くということ」は、「米国で起業して成功した若者」を自立の事例としてあげたあとに、「自立しなければ共に沈み、日本の停滞はさらに深刻になる。」といっている。米国で起業して成功する人のような、「自立」できる少数の人以外は「共に沈む」のだ、ということになると、私が「自立」ということばを好きになれないというのもご理解いただけるものと思う。
もちろん、「自立」を促すことは大切だろう。ただ、実も蓋もない言い方だが、「自立」できる人は、たいていは放っておいても「自立したキャリア」を歩むのだ。もっと大切なのは、働く人と、働く場を提供する企業とが互いに「支えあうキャリア」をいかに充実させていくことのほうなのではないか。
すでに、社内キャリアについて自己申告や社内公募、社内FAといった制度を設けている企業は数多い。今後さらに、企業はさまざまなチャンスを提示し、社員がそれを生かしていくことで、社員と企業の共同作業でキャリアをつくっていくという取り組みが進展するだろう。これに主体的に参画する、という意味での「自立」なら、その重要性は高いと思う。
また、近年、派遣や請負で働く人も増えている。こうした人のキャリア形成には、派遣会社や請負会社による意識的な対応が欠かせないし、派遣先や発注者の協力も必要だろう。難しい課題だが、急いで取り組む必要のある問題ではなかろうか。