松繁寿和・中嶋哲夫・梅崎修『人事の経済分析』

人事の経済分析―人事制度改革と人材マネジメント (MINERVA現代経営学叢書)

人事の経済分析―人事制度改革と人材マネジメント (MINERVA現代経営学叢書)

さまざまな企業の具体的な事例調査をもとに、その経済学的な分析を行った論文集です。私たち実務家からみれば、いわば「付加価値のついた事例集」とでもいうのでしょうか。たいへん楽しく読み進むことができました。


第1章は、医薬品業界においてさまざまな人事施策・人事制度がどのような順番で、どのような経路で検討され、導入されたかを計量的に分析したもので、「職務給・仕事給」は検討・導入されるにしても全体の「流れ」からは外れたものだ、という特殊性を指摘しているのはたいへん興味深く、また納得のいくものがあります。第2章は従業員に受け入れられやすいようグラジュアルに人事制度改定を行った事例、第3章は、複数のマクロデータにおける「管理職比率」の推移の乖離から、企業における処遇が職能資格と職位(ポスト)の2本立ての組み合わせで行われているという事例の紹介、第4章は賃金問題を主眼としない珍しい人事制度改革の事例のそれぞれ紹介となっています。第5章は論文ではなく、前半部分のまとめで、90年代の人事制度改革の流れの概観、という感じでしょうか。実務家にしてみれば周知のことで、それがなにか?という感じですが、研究者にとっては有益なのかもしれません。
後半部分に入って、第6章はいささか腑に落ちないものがあります。ここでは、テレビ局プロデューサーの賃金が非常に年功的であること、いっぽうでその生産性(視聴率を用いている)と年齢・勤続とは無関係であることから、後払い理論(怠業が発覚して解雇されると以降受け取れたはずの高賃金を失うことから、年功賃金が労働者の努力のインセンティブになるとする説)が妥当するとされています。しかし、生産性は通常単位投入量あたりの出来高で評価されるものであり、単なる出来高である視聴率を用いて生産性を評価するのはあまり納得がいきません。たとえば、日本シリーズやサッカーW杯の放映権を巨額を投じて獲得すれば、プロデューサーの能力とはあまり関係なく、高い視聴率を獲得できるのではないでしょうか。この事例はむしろ、プロデューサーの能力や生産性はデジタルには計測できないが、しかし一般的に経験を積むことで向上する傾向がある、という合意が成り立っているために、比較的全員の納得の得やすい年功賃金が採用されているのだ、と解釈するほうが当たっているのではないかと私には思えます。
第7章、第8章はふたたび製薬業界の事例に戻り、製薬会社のMR本人に対するていねいな聞き取りと人事担当者に対する聞き取りを通じて、MRのキャリアコースを類型化し、そのなかから仕事の与え方、仕事序列によって、昇進による差が現れるより早い段階から事実上の選抜が行われていること、さらにはその仕事の与え方については管理職(営業所長)がその権限において、個々人の個性や力量をみながら実施しており、大きな役割を果たしていることを明らかにしています。個別事例ですが、多くの企業に該当しそうです。
第9章は百貨店の事例で、学歴と昇進の関係を分析したもので、意外にも学歴間の格差が大きくないこと、若年時の異動がキャリア上損失となっている傾向があることなどが確認されていて興味深いものがあります。
第10章は、破綻・廃業した大手証券会社の従業員の再就職を分析したもので、年齢の高さが必ずしも再就職に不利になっていないことなど、非常に興味深い結果を導き出しています。それ以上に、4千人近い多数の従業員の動向を個別に確認した勤勉さには驚くべきものがありますが、これはおそらくは当該証券会社の人事部によるものなのでしょう。すなわち、これは廃業した会社の人事部がいかに従業員の再就職に配慮し、尽力したかを示しているのではないでしょうか。分析の本筋とは必ずしも関係ありませんが、世に知られないところでたいへんな苦心があることに深い感銘を受けました。
第11章は、地方銀行5社のデータをもとに、まずは管理職昇進に必要なキャリアを明らかにし、女性にとってどこがキャリア形成上のネックになっているのかを分析しています。
さて、最初にも書いたように「付加価値つきの事例集」としてたいへん楽しく読める本書ですが、最後に著者らの意図として「実証研究と人材マネジメント実務の間の距離を短縮し学際的な研究を進め実証研究の成果を活かした人材マネジメントを作り上げることこそが、本書の研究が実務家に問いかけている課題であろう。(p.262)」と書かれています。というわけで、「終章」として、各論文が企業実務にどのような「ヒント」を含んでいるかをごていねいに解説してくれています。もちろん、日本企業は日本の労働市場の中で人事管理を行っているわけですから、それなりにわが国共通の部分というものはあります。しかし、いっぽうで個別企業の人事管理は、各社の業種業態や業界内での位置、社風や経営理念、組織の成長段階、地域の状況、従業員の意識などなどに応じて、その最適なあり方を考えるべきものでもあり、また、安定性と継続性に配慮しつつ、ベスト・プラクティスを追求すべきものでもあるでしょう。そう考えると、実証研究を直接に実務に役立てようとすることには一定の慎重さを持つことが必要でありましょう。少なくとも、この本の「終章」のような形でダイレクトに役立つと考えることにはいささか危惧を覚えます。
もちろん、人事管理のベスト・プラクティスを追求するにあたって、事例集は非常に貴重な材料であり、実証研究の結果も有益でしょう。しかし、それはやはりこの本の「序章」が述べるように「賛否はともかく、…一時沈思するきっかけ」なのであり、その先は私たちが「自分の頭で考える」領域なのだと思います。