- 作者: 稲葉振一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/09/06
- メディア: 新書
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さて、まことに深く広い知見と思索をふくむ本なので、評を書くことは到底私の手におえそうもありません。十分読みきれているとも思えませんから、繰り返し読むことで新しい発見もありそうです。というわけで、ここではいくつかの雑駁な感想を書いておこうと思います。
この本は「労働」について縦横に論じています。本の最後では、著者の師である中西洋氏の「友愛主義」にも言及されています。ところが、この本はいっさい「労働組合」についてふれていません。これはおそらく意図的なのでしょうが、筆者は傾向的な労働運動の退潮を不可逆なものとみて、労働運動の歴史的使命は終わった(未来はない)と考えているのでしょうか。労働者を人的資本を所有し(個別に)取引する主体として位置付けるという考え方は、集団的労使関係、団体交渉決定システムを必ずしも必要としないものとして構想されているように思えなくもありません。
とはいえ、それは集団的労使関係と矛盾するものではなく、むしろ親和する可能性も大きいような気がします。実際、この本のこの記述は、労働組合再生への重要な示唆があるのではないでしょうか。
…仮にステークホルダーたちが守ろうとしている対象が、客観的にみればそれぞれの私的な権益だけであり、事実、彼らとしては、口ではなんと言おうと、あるいは主観的にはどう思っていようと、結果的には自分たちの私的な権益さえ守られれば満足するのだとしても、しかしそうやって自分たちの私的な権益を守るためには、実際には、自分たちの私的な権益のことだけを考えていたのでは、うまくいかないのではないでしょうか?つまりは「会社それ自体」を守るのが目的であるようなふりをする、あるいは心からそう思い込むことなくしては、会社を存続させて(あるいはもとの会社自体は存続しなくとも、事業自体を他の形で継続させるなどして)、結果的に自分たちの権益を守ること自体、おぼつかないのではないでしょうか?(259頁)
これは結局のところ−筆者の意図は異なるかもしれませんが−生産性運動の考え方にきわめて近い部分があるように思われます。実はちょうど、一ヶ月くらい前に入稿した「ビジネス・レーバー・トレンド」の原稿に「案外、労組再生の道は生産性運動路線の純化にあるのではないか」というようなことを書いたばかりだったので、この記述には非常に強い印象を受けました。
- まあ、最近ではかなりまとまった労働関連の本でも、労働組合が論じられないこともそれほど珍しくはありませんので、この本も労組の話をする紙幅がなかっただけなのかもしれませんが。
- (9月26日追記)ふと思ったのですが、「人的資本の所有者としての労働者」という考え方は、法理論的には法政大学の諏訪康雄教授が提唱している「キャリア権」の概念と案外親和性が高いのかもしれません。掘り下げて考えてみたいポイントだと思います。
もうひとつ、「自律的ロボット」はいささかSFだとしても、「優生学的操作・サイボーグ的改造」というのはそれなりにリアリティがあるものとして筆者は書いているようです。まあ、実際、すでにありふれたものとなっている「美容整形」だって「サイボーグ的改造」かもしれません。
そこからの連想で(連想なので本の論旨とはあまり関係ありません)、筆者は「優生学的操作・サイボーグ的改造」をもっぱら技術的なもの(たとえばドーピングのような)と捉えている感があります(違うかもしれません)が、すでに一種の優生学的操作に類似したものは、自由な選択の結果として(すなわち顕在的には意図的にではなく)社会的に進行しているのではないか、と思いました。たとえば、東大生の何割かは父親も東大卒であるとかいう話がよくあって、これは家庭環境の格差の問題として取り上げられることが多いように思います。まあ、家庭環境の問題なら、筆者もいうように「子どもに対して親が望むような教育をなすこと(との間に、本質的な違いはあるのか?)」ということではあるでしょう。しかし、現実には遺伝的な問題も無視できないのではないでしょうか。東大卒の父親の配偶者はやはり高学歴である可能性は高そうに思えますから、子どもは両親から高い知的素質を受け継ぐ可能性が高いでしょう。もっと下世話な話として、お金持ちの子女はお金持ちであるだけでなく、ルックスもいいことが多いように思います(これは私のひがみによる偏見か?)。これまた、服装やらルックスのケアに十分お金をかけられるというだけではなく、「お金持ちの男の配偶者には美人が多い」というたぶん事実(じゃないかと思うのだが)による遺伝的要因も大きいのではないでしょうか。
だとすると、逆もまたしかり、かもしれない・・・。もちろん、これらは自由な選択の結果なので「操作」とはいえないでしょうが、しかし類似はしているようにも思えます。価値観の相違、さらには経済的格差という面からは、社会的にそれが起きているというのは考えさせられるものがあるように思いますが、これは気にするほうがバカなんでしょうか?
連想ついでにもうひとつだけ、これは本の記述から完全に外れてきますが、「優生学的操作」が人間改造ではなく、排除によって行われる危険性というものもあるでしょう。日本尊厳死協会のような「死の権利」をめぐる運動は国際的な広がりを見せており、日本でも議員立法をめざす議連ができています。これに対して、難病患者団体などが「難病患者に事実上尊厳死を強いかねない」として反対運動を起こしています。私は個人的には日本尊厳死協会の理念には共感するところもありますし、私自身も場合によっては尊厳死を選択したくなるだろうとも思いますが、しかし、「社会的に有用でなくなったら死を選ぶのが立派だ」というような価値観が社会の大勢になってしまうのは怖いことだというのもわかります。河野太郎衆院議員が父の河野洋平衆院議長に臓器移植のために肝臓(だったか)を提供したときに、インタビューで「臓器を提供するのが愛情であり、しないのは非情だ、という考え方は絶対にしないでほしい」と言っていたのを思い出しました。
まことにとりとめもない感想ですが、とりあえず書いておこうと思います。私には(読み物として)非常に面白かったので、急いで読み進めてしまったという感もあり、あらためてじっくり読んでみたい本です。