市場個人主義の時代

きのうのエントリで紹介した本の著者、ロナルド・ドーア氏の講演(労働政策研究・研修機構国際フォーラム、4月28日(木))が、同機構のホームページで紹介されています。
http://www.jil.go.jp/event/ko_forum/kouenroku/20050428_2.htm
これまた非常に含意に富んだものですが、一箇所紹介しましょう。新古典派経済学について話している部分からの抜き書きです。

 ものの価値が何であるかというと、市場でどれだけのお金で売れるか。人の仕事の価値は何であるかというと、労働を直接売るか、あるいは製品として労働の成果を売る場合の価格によって、その価値が決定される。英語でよく言いますけれども、「Economists are people who know the price of everything but the value of nothing」。プライスとバリューは別なものであるという一般人の常識によることわざですが、学者に言わせれば、それは当たり前。同じものであるという考え方がますます浸透してきて、一般市民の何が公平であるかの常識に影響を与えてきているのではないかと思います。

 それはいいことであるか悪いことであるかといえば、人の立場によって違うと思います。労働市場において売り手市場に直面している、例えばソフトウエアのエンジニアとか、非常に高度な技術を売っている人にとっては非常にいいことで、就職難の心配をする必要は全くない。ところが、スーパーで働いているおばさんとかオフィスの掃除をやっているような人、買い手市場に直面している人にとっては、自分の仕事の価値が市場における価格と同一視されることは、必ずしも喜ばしいことではないと思います。

 その原理がどれだけ貫徹しているか、どれだけ徹底しているかということは、社会によってかなりの違いがあると思います。例えば日本と米国を比べてみると、1つの大きな違いは、金融業の仕事と、製造業やサービス業の仕事、日本語でよく片仮名で書きます、「カネづくり」と「モノづくり」の対比。そして、バブルのときにしょっちゅう、工学部の非常に優秀な学生が銀行に行ったり、証券会社に流れていっていることがいかに悲しいことであるかという記事を見かけましたけれども、その仕事の価値の基準は、アメリカよりもずっと日本のほうに残っているのではないかと思います。

 仕事の価値イコール価格という一連の思想を、私は市場個人主義と言ってもいいんじゃないかと思います。

これは価格が低いことがいけないと言ってるわけでは必ずしもないんですね。この仕事はこの賃金であるべきだ、などという基準は神ならぬ人にはつくりようがない、だから失敗もあるけれど市場というものを使わざるを得ない。そこで価格がつくけれど、価格が低いからといってその仕事の価値が低いというわけではない。ここが大事なところで、私たち労務屋の信条というか、理想である職業に貴賎はないという理念につながるところです。だから、もちろん差があるのは当然だけれど、市場メカニズムのままに無際限に格差が拡がっていいというものでもない。その理念が市場個人主義では消失してしまっているのではないか、という指摘ではないかと思います。