「元ヤンキー」教諭の聖職意識

傷害事件を起こして高校を中退した「ヤンキー」が、中退者が集まる「私立北星余市高校」で再起して同校の教師となるというテレビドラマ「ヤンキー母校へ帰る」のモデルとなった義家弘介教諭が退職するというニュースが流れていました。

 「ヤンキー先生」として知られ、テレビドラマのモデルにもなった私立北星余市高校(北海道後志管内余市町)の義家弘介教諭(33)が3月末に同校を退職することが15日、分かった。ホームページ(HP)に掲載した自らのコラムで表明した。
 義家さんはコラムの中で「学校を休んで講演ばかりしている」「印税が入っているはず。副業だ」などと、講演・文筆活動が学校関係者の一部から批判されたことに悩んだと説明。(後略)
  
05/02/15 19:56 X798  JIJI PRESS
ヤンキー先生、母校去る=北星余市高の義家さん−北海道 から

そのホームページのコラムをみると、義家氏はこう書いています。

 …母校存続のために全てを犠牲にして行ってきたことは,危機が回避された途端,負の感情となって私に降りかかってきた。何よりも大切なはずの北星余市高校教育の根幹は,私を中心に大きく揺れてしまった。
 もし私が企業人だったならば,このような妬みにも似た声と徹底的に戦う道を迷わず選んだだろう。しかし,私は教師である。学校とは『生徒たち』のためにこそある。今,目の前にいる子どもたちが不安の中にいればいるほど教師集団,PTA,彼らを受け入れてくれている地域(寮・下宿)は,総力を結集し,団結して彼らと向き合わなくてはならない。自らの思い入れやプライドのために,団結を曇らせるわけにはいかないのだ。共に教育活動を行う者たちが『大人の都合』で揺れたとき,目の前の生徒たちの未来は必ず揺れる…。

義家氏は、問題は周囲の嫉妬と無理解なのだが、学校と生徒のためには自分が身をひくのもやむを得ない、という考えのようですが、嫉妬や無理解を嘆くだけでは解決にならないような気がします。
義家氏としてみれば講演も執筆もすべては学校のためでしょうが、いっぽうで義家氏自身も書いているように、学校運営はすべての教師をはじめ親や地域などの関係者の努力によって行われていますから、単にテレビドラマのモデルになったというだけで義家氏一人だけが目立ち、注目を集めることに反発があるのも情においては致し方ないでしょう。それを放置すれば軋轢が起きるに決まっていますし、反発するのがけしからんと言ってみても仕方ないわけで、これはマネジメントの問題です。具体的には、講演や執筆を学校経営に必要な業務として明確化し、それを義家氏の担当業務とする業務分担をつくり、「理屈や感情は別として、現実に世間のニーズが義家氏にある以上は講演や執筆を義家氏の担当とすることが合理的」ということを関係者に説明して納得させ、講演料や原稿料の帰属を含めたルールを整備してきちんと運営する、といった、ごく当たり前のマネジメントができていないわけです。
それでは、なぜそんな当たり前のマネジメントができないのか。それは単なる経営陣、幹部の怠慢だけではなさそうな気がします。むしろ、教育の現場、さらにはわが国全体かもしれませんが、「教師は聖職であり、校外での活動に出精して目立ってはならない」という原理主義的な価値観が支配しているところにそもそもの問題があるのではないでしょうか。もちろん、それが悪いというわけではありませんが、あまり硬直的なのは考えものです。今回の場合は、それがあるから、学校幹部としても本来なら学校としても必要な「仕事」であるはずの講演や執筆にきちんとした位置付けを与えることができず、あいまいなで不遇な取り扱いのまま放置せざるを得なかったのではないでしょうか。
その点、民間企業であれば、企業の宣伝になるということで「仕事」と位置付けても特に文句は出ないでしょうし、そこそこにほかの仕事と両立していて職場に大きな迷惑をかけず、処遇もそれなり(に止められている)なら、嫉妬は浴びるにしても退職を余儀なくされるほどのプレッシャーがかかることは考えにくいと思います。
周囲だけではなく義家氏自身も、こうした原理主義的な価値観にとらわれているように思えます。義家氏は「私が企業人だったならば,このような妬みにも似た声と徹底的に戦う道を迷わず選んだだろう。しかし,私は教師である。」と書いています。現実には、前述したように企業人ならば特段「徹底的に戦う」までもなく共存はできる(もちろん、講演・文筆活動の功績によって他人を上回る処遇をしろ、ということを言い出したら勝ち目の薄い戦いになる可能性はありますが)だろうと思うのですが、それはそれとして、「企業人なら戦うが、教師だから戦わない」という理屈は、「カネもうけのための企業であれば組織を混乱させても許されるが、『生徒たち』のための学校ではそれは許されない」という「聖職意識」ゆえのものでしょう。そう考えると、義家氏が「聖職意識」にとらわれず、学校幹部に対して「学校のために、講演や執筆を私の仕事としてやらせてください。講演料や原稿料は学校に納めます。待遇もほかの教師と同じでかまいませんし、通常の授業なども可能なかぎりやります」と訴えれば、学校としても必要であることは事実なのですから、もう少し考え方を柔軟にして、周囲の理解を得るために努力したかもしれません。
いっぽうで、義家氏がガチガチの聖職意識原理主義者であったなら、軋轢が耐えがたくなった段階で、講演や執筆をやめて教育に専念するという道を選択したはずです(実際、義家氏が退職を表明したコラムを読むと、なぜ講演や執筆をやめなかったのかについては今ひとつ疑問が残ります。「私がやめても大丈夫だから」というのは理由になりませんよね)。聖職意識に徹しきることもできず、かといって聖職意識の緩和を訴えるところまでも行けず、その中間だったところに、氏が退職を余儀なくされてしまった背景があるのでしょうか。