「囲い込み症候群」症候群

今朝の日経「経済教室」に、太田肇同大教授の「21世紀の日本企業の組織型 『囲い込み』から『インフラ』へ」との論考が掲載されていました。
非常に精力的に調査活動、執筆活動に取り組んでいる人のようで、ちくま新書の「囲い込み症候群」や中公新書の「選別主義を超えて」を読んだ印象でも非常にマジメな人という感じがします。ただ、惜しむらくは、そのマジメさゆえか「企業(や組織)が個人を拘束したり、なにかを無理強いするのはけしからん」「人間は自主的、自発的に働き、生きるべきである」といった単線的な倫理観に凝り固まっていささか独善的になっているように思われます。
そのせいか、太田氏の企業批判はかなり逆噴射している感があります。もちろん、こうした論調を好む人も多いはずで、そうした人からは高い評価を受けるのでしょうが、大勢としてはひとつの異見の提示という受け止めにとどまり、大方の共感を得るには明らかな限界があるのではないでしょうか。もっとも、私も「囲い込み症候群」のなかのPTAや自治会に関するくだりはそれほど違和感なく読みましたので、企業外の人からみれば太田氏の企業批判ももっともに思えるのかもしれません。
とはいえ、営利を目的に経済合理性で動く民間企業の行動原理は、PTAや自治会のそれとはそれなりに異なるのが当然というものです。太田氏は企業の人事管理はすべて従業員を「囲い込む」こと、「会社への忠誠心や仕事に対する意欲を常にアピール」させること、そして「その中で選別し序列づけ」ることのために行われているかのように述べているようです。もちろん、そうした面があることも事実でしょうが、それだけかのようにいうのはいかにも一面的な感は否めません。
たとえば、太田氏は「経済教室」でこう述べています。

 囲い込みの制度としてはまず、終身雇用制、年功序列制、企業別組合という「三種の神器」、それに寮や社宅など私生活にまで及ぶ広範な福利厚生があげられる。これらはいずれも、転職すなわち労働者の企業間移動を大きく制約する。いったん退職して再就職する場合、賃金やポストの面で大きなハンディを負うことに加えて、本人はもちろん家族の生活基盤も新たに築き直さなければならないからである。

「終身雇用制」というタームは、実態は「終身」でもなければ「制」でもないという意味で二重に間違っているとか、年功序列にも一定の合理性はあるとかいったことは別として、そもそもこれらは中長期的な熟練形成を最大の趣旨としているもので、「囲い込み」はその人材投資を回収する過程で生じた、せいぜいその派生物に過ぎません。雇用の安定や賃金の上昇期待は労働条件の重要な要素ですから、優れた労働条件を提示することで忠誠心や意欲を高めるのも合理的な人事管理であり、なにも「囲い込み」そのものを目的としているわけではありません。
転職にともなって賃金やポストが低下することが多いのも、転職前の企業での企業特殊的熟練が剥落し、転職後の企業での新たな企業特殊的熟練を保有していないのであれば当然のことで、逆にこうした事情がないか、小さい場合なら、賃金の上昇する転職は日本でも多々あるはずです。
また、寮や社宅もその多くはそもそも遠隔地からの労働力確保の必要性によって導入されたものです。もちろん、潤沢な借家の供給があれば家賃分の賃金を上乗せすれば済む話ですが、日本のいたって貧弱な借家市場が、企業みずから社宅を準備することを要請したのです。これは逆にいえば、転職先の企業に社宅があるということは、生活基盤の面で転職を容易にしているということですし、また、しょせん遠隔地への転職の場合は、社宅があろうがなかろうが生活基盤を築き直さなければならないことに変わりはないはずです。
さらに太田氏はこう述べます。

 より直接的に社員を囲い込む制度としては、兼業(副業)禁止規定や仕事に専念させる義務を定めた規定がある。

もちろん、成果さえあげれば、つねに仕事に専念していなくてもいいじゃないかとか、労働時間外に兼業していてもいいじゃないか、というのは一面の正論です。で、企業としてみればそうした仕事まで直接雇用でやる必要はさらさらないわけで、現実にインディペンデント・コントラクターの活用などのアウトソーシングが進められています。いっぽうで、周到なチームワークが必要とされる仕事や、一瞬の気の緩みが大怪我につながるような仕事も多々あるわけで、こうした仕事では職務専念義務を定めるのは当然です。なにも「囲い込む」ことを主目的にしているわけではありません。
また、兼業禁止に関しては、労働時間の通算を定めた労働基準法の問題もあります。
ほかにも申し上げたいことはありますが、キリがないのでこのくらいにしておきます。どうやら太田氏は、企業は「囲い込み」をするものであり、それはけしからん、という強固な信念をお持ちのようです。信念を超えて、「信仰」に近いかもしれません(ちょっと口が悪くて申し訳ないのですが、太田氏の表現を借りるならば、一種の「病気」として「『囲い込み症候群』症候群」とでも言いましょうか)。「信仰」であれば、経済社会の現実をかけはなれているのも致し方ないということなのでしょう。
さて、太田氏の主張はさらに進んで、「囲い込み」「選別主義」から「インフラ」「適応主義」に移行すべきであると述べ、その例として中国企業をあげます。

 欧米の伝統的大企業にほぼ共通するシステムの特徴は、少品種大量生産の時代に構築されたビューロクラシー(官僚制組織)と科学的管理法の考え方を受け継いでいることである。
(中略)
 …ハードよりもソフトが価値の源泉になり、IT(情報技術)がビジネスや仕事を大きく変えるポスト工業化社会では、組織内部の最適化を重視する伝統的な欧米型システムは必ずしも有効ではない。
(中略)
 …近年日本でもよく知られるようになった海爾(ハイアール)集団、それに電子レンジのトップメーカー格蘭仕(ギャランツ)では、「相馬より賽馬(さいば)」を人事の基本に掲げている。賽馬とは競馬のことであり、会社があらかじめ人を選別するのではなく、実際に仕事をさせてみて高い業績をあげた者に正しく報いるのである。
 中国企業のなかには、昇進や報酬の決定に一種の市場原理を取り入れているところが多く、社員の採用も三カ月程度の試用期間に実力と適性を示した者を正式採用するのが普通である。こうした市場原理の導入は一見すると働く者に厳しそうだが、組織の論理に縛られない分だけ自律性が高く、またさまざまな差別や偏見を排除する手段としても有効と考えられる。

海爾も格蘭仕も立派な企業ですが、少なくとも「ハード」の「メーカー」であることは間違いないでしょう。中国沿海部は「世界の工場」といわれているくらいで、現代の「少品種大量生産」を代表する地域であり、それゆえ企業組織もかなりの程度ビューロクラシーであるという理解がされていると思います。それを例にとって「これからはインフラ、適応主義だ」といわれてもちょっと・・・。
そもそも中国と日米欧とは経済・産業の発展段階や労働市場の状況が違いすぎますから、ヒントはあるにしても、そのままあてはめるのは無理があります。たとえば、太田氏のいう中国の「三カ月程度の試用期間に実力と適性を示した者を正式採用」というのも、日本企業がかつて、日本経済が現在の中国沿海部くらいの発展段階だった時期に実施していた「臨時工制度」と共通点が非常に多く、今さらの感を禁じ得ません。
低賃金で、しかも未熟練でもそこそこのレベルのアウトプットが出せるような仕事が多いのであれば、事前に「選別」せずに、「仕事をさせてみて『正しく報いる』」というやり方も成り立つかもしれません。しかし、日米欧のように経済が高度化し、仕事の内容もそれなりに複雑化、高度化しているなかでは、なんらの選別もなく「仕事をさせてみて」、結果として出来たのは不良品ばかりとか、大口営業先の信頼を失墜したとかいうことが起きるリスクは非常に大きいはずです。そのコストを引き受けられる企業があるとは思えず、「相馬」、それなりに人材を見極める(100%精確でなくても、リスクが十分低くなる程度に大雑把に)、すなわち「選別」することが必要でしょう。
また、中国であれば、大方において労働力供給はきわめて潤沢なので、「賽馬」=競馬の結果駄馬だったら馬肉にすればいいという人事管理も可能でしょうが、日米欧でそんな人事管理をしたら即座に人材確保に支障をきたすでしょう。
もちろん、私は太田氏が指摘するような問題点や弊害がないというつもりはありません。むしろ課題は多く、大きいと思っています。しかし、太田氏のいうようにすべてを「囲い込み」「選別」というネガティブ・イメージの言葉に直結し、それを全否定してもなんの解決にもならないと思います。経営ニーズや労働市場の状況、あるいは経済の動向や社会情勢などに応じて、ベスト・プラクティスを求めて地道な改善を続けていくしかないのではないでしょうか。