クローニーキャピタリズムの話

先日のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20141110#p2)にhamachan先生からトラックバックを頂戴しましたのでコメントを書きたいと思います。個人的な価値観に入る話になりますので少々長くなりそうな予感がしますがご容赦を。加えてあらためてウラ取りするだけの時間がないので多々アバウトになろうかと思いますがご勘弁ください。
さてまず前提としてクローニーキャピタリズムという語についてですが、これが典型的・狭義には開発独裁国家でみられるような縁故主義(さらに狭義だと血縁主義になるのでしょうか)を指すことには異論はありません。これがまあ微妙な言い方ですが「進歩した社会」においては不公正なものとされていることも間違いないでしょうし私もそう思います。逆にいえば約束とか契約とか守られないのが当たり前の「進歩していない社会」ではそんなこと言われたって身内しか信用できないんですという話であり、したがってとりわけ欧米人がこの語を発するときにはあいつら遅れてるよねえといった軽侮のニュアンスが含まれるというのもまあ大方の理解ではないかと思います。いずれにしても私もクローニーキャピタリズムが正価値的・価値中立的ないし褒め言葉であるとは考えておりません。
そこで今回の話ですが、いなば先生は(もちろん批判的趣旨ではありますが)開発独裁国家におけるそれのような狭義の意味でこの語を使われたわけではないだろうというのもまあ明らかに推測できるわけで、そこで私は私が承知しているいなば先生の人となり、主義主張などを思いめぐらせてこう書いたわけです(ご本人からも事後的に追認いただきましたが)。

 これは定義次第という部分も大きいのでしょうが、ここでの文脈から考えれば「クローニーキャピタリズム」とは「他人の負担を含む増税を財源に自らの利益・関心事に関係する支出が増えることは好ましいという考え方」を指しているのではないかと思います。だとすれば「子ども子育て支援の財源が消費税に紐づいているため、増税に賛成」という駒崎さんのツイートを「クローニーキャピタリズム」と表現することもそれほど不自然な話ではありません。
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20141110#p2

ですからここでは定義付きの用語ということで「クローニーキャピタリズム」とカギ括弧付きにしているわけですし、(原典ではない)クローニーキャピタリストという語を使うときにはカギ括弧以上に踏み込んだカッコはてな((?))付きにしているのもそういう特殊な定義の用語ですという趣旨です。もちろんこの用法が適切かどうかについては議論があっていいと思いますが、少なくとも定義と、定義付きの用法であるということは明示しているので議論の作法はふまえていると思います(このあたりhamachan先生には自明のことと思われますがギャラリーのために書きました。いやちょっと辞書をひいてみたくらいで社会科学を自称するブログもあるらしいんでね)。
ということで前提の確認は以上で、hamachan先生のご指摘へのコメントですが、まず最初におわびですが私の一昨日のエントリは(文中言及しているとおり)hamachan先生のブログのエントリのうち「「ワシの年金」バカが福祉を殺す」まで読んだ状態で書いており「ステークホルダー民主主義とクローニー資本主義」はその時点では未読だったことをご諒承ください。そこで、

寡聞にして、一握りの市場原理主義者を除けば世の中はクローニーキャピタリストだらけなのであり、ということはすなわちクローニー資本主義というのはいかなる意味でも侮辱語などではなく、世の人々にとってごくごく当たり前のことを当たり前に叙述しただけの価値中立的ないし正価値的な言葉であるというような用語法を、わたくしは知りません。
…それをクローニー資本主義という名で褒め言葉として使っているような実例は世界中にただの一つも見いだすことはできないように思われます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-fe0a.html

ここが最初に価値観がとか書いたところで、hamachan先生の「世の人々にとってごくごく当たり前のことを当たり前に叙述した」ものは侮辱語などにはなりえない、という人間性への信頼は、私は非常に好ましく感じます。ただ私にはまた異なった考え方があって、人間というのは自分たちが理想とするものと較べたら軽蔑されても仕方ないような人が大半を占める残念なものだろうと思っているわけです。以前類似の展開があったときにもそうしましたが、ここで再生エネルギーを担ぎ出しているのは失礼ながらいなば先生の脱原発活動に対するあてこすりでありまして(地雷の予感がするので言い訳しますがこれは脱原発の良し悪しではなくいなば先生だって自分の関心事に水を引こうとされているでしょという意味です)。
ですから、私の考え方としては、今回の私の記述のように「世の人々にとってごくごく当たり前のことを当たり前に叙述した」結果が「侮辱」語などになってしまいました、というのもまあ仕方ないのであり、仕方ないから「そんな私たちですけどそれぞれに頑張って対話や妥協を通じて世の中ずいぶんよくしてきましたよね」と開き直っているわけです。もちろんそこにはそこここから聞こえてくる賢人政治的なものに対する反発があります。
ということで、ここの結論部分でも「私はhamachan先生に較べると相当程度クローニーキャピタリズムに価値を見出しているという点に少し違いがある」と「hamachan先生に較べて」と明記しているように、低劣とか下司下郎とかに較べたらまあ相当値打ちもあるんじゃないのと申し上げているわけで、全然褒めてない
そういう違いがありますので、続けてhamachan先生はこう書かれるわけですが、

…それを既に予め極悪非道のインプリケーションがべっとりと塗りたくられたクローニー資本主義などという用語で表現しようなどと考えたことはありません。
 上記「ステークホルダー民主主義とクローニー資本主義」というエントリで書いたのは、まさに侮辱語以外ではあり得ないクローニー資本主義という言葉で稲葉氏が描こうとした対象物は、侮辱語ではないステークホルダー民主主義という言葉で形容されるべきものであるということでありました。もし、労務屋さんが言うように、稲葉氏自身が侮辱語としてクローニー資本主義という言葉を使ったのでないのであれば、上記エントリは全くその存立基盤自体が崩壊することになります。
 しかし、そのためには、世間一般である程度の頻度でクローニー資本主義という言葉が価値中立的ないし正価値的に使われている有力な実例を示す必要がありますし、さらに、稲葉氏自身が世間通常の侮辱的意味ではなくかかる価値中立的ないし正価値的な用法で用いたということを証明する必要があります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-fe0a.html

hamachan先生がいかにクローニーキャピタリズム、クローニー資本主義という語を嫌悪しておられるかということはよくわかりました。このあたりにもコミュニケーションギャップがあるのかもしれません。いずれにしても程度問題はあれ上記のとおり私もクローニーキャピタリズムは当然負価値的な語だと思いますし、hamachan先生のいわゆるステークホルダー資本主義がクローニー資本主義だなどと申し上げる考えもありませんし、ステークホルダー資本主義というあまり手垢のついていなそうな表現で呼びたいとも思います。。
いなば先生について推測するに、前後の文脈などから判断していなば先生がくだんのツイートでクローニーキャピタリズムという語を価値中立的ないし正価値的に使っているとは到底想定できないでしょう。あれは誰がどうみても負価値的(「侮辱」的かどうかはともかく)な表現であり、ただ私には(駒崎さんに批判的ではあれ)「極悪非道なインプリケーション」をもって使用されたとまでは思えないというだけの話です。これは多くの人にとってそうではないかと思うのですが、まあこのあたりは読む人の読み方によっていろいろかもしれません。
ただその読まれ方は駒崎さんという人物やその活動に対する評価によって大きく影響されるのではないかとも思うわけで、一昨日のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20141110#p2)の後半部分で書いた話につながってくるわけです。