日本キャリアデザイン学会研究大会

この13・14日の2日間、東京家政大学で第11回日本キャリアデザイン学会研究大会が開催されました。本学会もめでたく10周年を迎え、この間の研究成果をレビューしつつ来たるべき10年の展望を描こうとの趣旨でした。
(今のところhttp://www.career-design.org/eve/index.htmlで日程などがご覧になれます)
私は2日めの午前中に自由論題セッションの一つでコメンテーターを仰せつかっていたのですが、当日急遽司会者がお休みになってしまったのでもうお一人のコメンテーター(新島学園の山口憲二先生)とともに司会も務めることと相成りました。
このセッションでは3本の発表がありましたがいずれも研究発表というよりは実践報告に近いものでした。まず横浜国大特任講師(つまりキャリアコンサルタントですね)の市村光之氏か企業人事担当者と若手社員のインタビュー調査をもとに報告されましたが、まあキャリアコンサルタントがキャリアセミナーとかで学生さんや若手社会人を相手にどんなことをどの程度の取材でしゃべっているのかということの知見が得られたという点では聴講のみなさまにも有益だったのではないかと思います。
次は大阪大学特任研究員の櫻井浩子さんの報告で、大阪大学などが中心になって62大学・87企業が連携して修士課程1年めを対象に実施しているenPITという大学間・産学交流をともなうPBLベースのITスキル学習プログラムが紹介され、これを通じてITスキルに限らずジェネリックスキルも伸長しているらしいことがPROGテストの結果から示されたとの報告がありました。続く大手前大学の坂本理郎先生と京都女子大の西尾久美子先生の報告では、両大学と関西大学の三大学による経営学のインゼミを通じて、やはり経営学の学びに加えてジェネリックスキルの向上がはかられたことが、これまたPROGテストの結果をもとに報告されました。
ということで大筋は似た話ではあったのですが、大阪大学のほうはパンフレットも立派でプロジェクトの規模も大きく、相当の予算を確保して進められているという印象であった一方、大手前大学ほかの取り組みはたいへんに手作り感あふれるもので、いずれにしても運営サイドには大変なご苦労があるはずで頭が下がります。PBLがジェネリックスキルの向上に有益だというのも納得のいく話で、これからその検証がさらに進むことを期待したいと思います。PROGテストというのはそのための評価ツールとしても案外に有望なのではないかとも思いました。いっぽう、これは山口先生のコメントでも指摘されていましたが、PBLの有効性は認めつつも大学教育の中でどの程度の重みを持つのが適当なのかという議論はあるようで、参加者の方の中にもいろいろなご意見があるようでした。
2日めの午後は特別講演のあと全体シンポジウムが開催され、まず法政大学の佐藤厚先生がキャリアデザイン学会10年の研究成果のレビューを通じてキーワードとしてキャリアの自立・自律を提示され、続いて東大の玄田有史先生のモデレーター、佐藤厚先生、法政の児美川孝一郎先生、関大の川崎友嗣先生、日本アイ・ビー・エムの平林正樹さん、学習院大の脇坂明先生のパネルによるパネルディスカッションが開催されました。
玄田先生の巧妙な進行とパネリストの的確な応答でたいへん興味深い議論が展開されましたが、私の感想を少し書きますと、まず「自立」あるいは「自律」という言葉がそれぞれ様々な定義で飛び交い、共通の定義が必要ですねという話にもなっていたわけですが、私はどうも「自立」が多様されることに対する違和感を禁じえませんでした。というのも自立というのは使用者にとってかなり好都合な言葉であり、どういうことかというと自立していないとか自主性に欠けるとかいうのは労働者に責任を引き受けさせることができるわけです。労働者を自立させるのは使用者の役割じゃないでしょとか、上司は知識やノウハウを伝授することはできても自主性を高めることはそれほど簡単ではないですよねとかいう話で、これは自由論題でのコメントでもお話ししました。加えて、自立というのは為政者にとっても同じ理屈で好都合なものになりかねないわけで、政府が国民に向かって自立せよと叫び続ける国家像というのはかなりヤバい感じがするのではないかと思います。むしろ人間が完全に自立するなどということは(とりわけ分業の進展した現代社会ではなおさら)およそ不可能なわけで、その自立できない部分を国なりなんなりがカバーしてくれるから世の中成り立っているわけでしょうから、自立をキーワードに議論する際にはそのあたり慎重さが必要ではないかと思いました。もちろんパネリストの先生方はそれぞれのバランス感覚をもって慎重に議論されていたとは思いますが、参加者の受ける印象のことを考えると。
同じようにパネルの中で議論のあった自己決定論、これは玄田先生が「キャリアデザインを考えるとき、いよいよ往生するというときに自分の人生を振り返ったときに『いい人生だった』と言えるかどうかは、自分で決めてきたかどうかによるのではないか、一生を振り返ったときに、自分で決めてきた人は『いろいろなことがあったけれど、自分で決めた結果だし、よかったんじゃないか』と言えるのではないか…」といった意見を述べられたわけですが、これも私にはやや違和感がありました。いや私個人としては玄田説に非常に共感するものがあり、自由が好きな私としては自分で決めたいから決めるに十分な情報をよこせという気分になりますし、反射的に自分で決めたことの結果は自分で引き受けるんだから保険とかかけておこうなどと考えるわけですが、どうも労働政策の議論とかしているとすべての人がそうではないように思われることもまた事実です。というか、自分で決めて責任を引き受けるなんていやだ、それでそこそこ安定した人生が期待できるなら他人に決めていただいても結構、という人は私が思っているよりかなり多い、ひょっとしたら多数派かもしれない、などと思うわけです。となると、本当にキャリアデザインにすべて自己決定を求めることがいいことなのかという話になるわけで、こう考えてみるとこれもさきほどの自立の話と表裏のような議論でもあり、したがってやはり程度問題ではあるわけでしょうが。
ただこれについては玄田先生は希望学の取り組み、特に釜石のフィールドワークを通じて相当の強い確信をお持ちのようでしたので、あらためて玄田先生の作品や希望学の成果を勉強してみたいと思います。
もうひとつ、パネルの最終版に非常に興味深い展開があり、日本アイ・ビー・エムの平林氏が教育機関への要望として、特段の職業スキルは求めないが「mature(成熟した)な人材」を輩出してほしいとの要望を述べられましたのに対して玄田先生が猛然と反論されるという一幕がありました。
この「matureな人材」というのはまずまず「おとなの人材」という理解でよさそうで、社会常識に沿ってお客様第一に振る舞える人、というところではないかと思われ、職業的レリバンス厨の皆様が血相を変えて怒り出しそうな代物ではあるわけですが、玄田先生はそこに反発したわけではありません。「なんだなんだ企業はこれまで学生は『白い布』でいい、大学教育で変な色はつけないでほしいと言ってきたじゃないか、それを今度はmatureとかなんとか色付きの人間を作れというのか」といった調子で強く反論されたのです。
ここの議論はかみあわないままに流れてしまい残念だったのですが、私としては玄田先生がイライラされた気持ちはよくわかるところで、ひとつは多様性をどう考えているのかということではないかと思います。企業が「白い布」を求めるのが怪しからんと主張する人は往々にして企業がそれを同じ色に染め上げるとも主張するわけですが、実際には(まあ同じ色の部分もあるにしても)一人ひとりの人物をみながら様々な色に染めていく/染まっていくわけです。極端な例になりますが、あいさつもできない、口の利き方もなっていない、でもこの技術分野では天才的な素質を持っています、という人材であれば、企業はやはり採用してその足らざる部分は周囲がカバーしたりするでしょうし、往々にしてそういった人材がイノベーションを生み出すこともあるわけです。
また、私としてはやはり大学などの教育機関に対して「お客様第一」のような商売の徳目を教え込むことを期待するのは難しいのではないかとも思いました。いやもちろん商学部において万代の老舗がいかなる経営理念のもとに経営を展開してきたか、多くの例に共有されるのは「お客様第一」の視点だ…といった調査研究をされるのは当然でしょうし大いにやられるべきことだと思います。とはいえ、「お客様がそれをお求めになるから」という理屈がいかに多くのいわれない差別を正当化してきたかという歴史(と現実)を考えると、やはり大学などにそのような「人格教育」めいたものを求めるのは無理があるのではないかなどと考えたわけです。
ということで、パネルの中で児美川先生が「教育学は基本的な価値観の部分に比較的容易に踏み込んでいく、そこが他の分野とは異なるかもしれない」という発言をされてなるほどと思ったのですが、やはりキャリアデザインの議論を深めていくにはそうした価値観の部分の議論も必要なのではないかと感じました。実務家が多く参加している学会なので、どうしても実践報告のようなプラクティカルな話が多くなってくるわけですが、案外社会哲学のような分野も重要なのではないかと。
あと学会全体を通じての感想として、これは佐藤厚先生も基調講演で指摘しておられましたが、やはりキャリアデザインは政策との関連が強いわけで、であれば法学分野の成果が10年間ほとんどないというのは残念なように思われます。現実には中労委会長や労政審会長を務めた大物法学者が「キャリア権」という概念を提唱しており、現に政策文書などにも取り入れられたりしているわけで(今学会にあわせて刊行された川崎友嗣ほか共編著・日本キャリアデザイン学会監修『キャリア支援ハンドブック』ではご本人が解説記事を書いておられますが)、かなり重要な分野ではないかと思うのですがどうなのでしょう。
ただまあ労働法学という世界も独自の規範めいたものがあるようにも感じられるわけで、弱気なことをいうと労働者保護を旨とする労働法学と相当程度資本の論理にもとづかざるを得ないキャリアデザインとは相性が今一つなのかもしれません。たとえば2006年のキャリアデザイン学会の研究大会のシンポジウムでは労働経済学、経営学、教育学、心理学と並んで労働法学のパネリストが参加して「キャリア研究の到達点と課題」という議論を深めていますが、ここに参加した労働法学者が大内伸哉先生だったというのが象徴的に見えてしまうわけで、つまり大内先生が労働法学界の中で独自の立ち位置にあるから議論になったという印象を禁じ得ないわけです。偏見かなあ。偏見なのか。
現実には当日は障害者関連の学会主催セッションに参加されたとのことで福島大学の長谷川珠子先生のお姿が見えました。もちろん障害者雇用促進法改正をふまえての専門家(第一人者)としてのご参加で、こういう切り口からなら法学者の参加も得やすいのかもしれません。このあたり学会の努力も必要かもしれません、と努力もしない私が書いてみる。
なお偏見で思い出しましたので10周年にあたっての感想をひとつ。10年前の私は経団連で教育関連の政策にも関わっていたのですが当時の私には教育学と教育学者に対する偏見が強烈にあり、まあ偏見なのですが世間の大方の見方とそれほど違うものでもなかったと弁明しておきたいわけですが、正直に白状しますとこの10年間で私の見方はずいぶん変わりました(ただ児美川先生の印象が非常に強いので児美川先生が例外である可能性もあるかもしれませんが、そんなことはないでしょうが…)。あらためて反省することしきり。いい勉強でした。