名古屋市議選

とまあ生存確認だけでも何かということで、若干の雑感を。hamachan先生が、ご自身のブログで震災と名古屋市議選とを関係づけて論じておられます。hamachan先生ご自身の見解のみならず、何人かの論者の見解を紹介しておられますね。先生のブログは例によって進行が速いのですが、このあたりです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-36e5.html
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-cf02.html
でまあ、私は名古屋市民ではありませんし、数日後には愛知県民でもなくなるので特段かばいだてする義理もないのですが、近隣住民のひとりとして生活実感をふまえたコメントを試みたいと思います。
上記のエントリで名古屋市議選と関連する主な論点は二つありそうです。
ひとつは「今後、復興のために巨額の財源が必要となることが明白であるにもかかわらず、減税を主張する政党に投票し勝たせるとは何事か」、
もうひとつは(まあ類似しているのですが)「被災地における自治体職員の人手不足、そのもとでの献身的な尽力をみながら、依然として公務員の非効率を主張する政党に投票し勝たせるとは何事か」
ということではないかと思います(申し上げるまでもなくこれは私の雑駁な要約であり、hamachan先生のご意見がこのとおりだと主張する考えはありません)。
そこで前者についてですが、名古屋市議選の結果については、河村市長率いる減税日本が勝ったというよりは、民主党自民党はじめ、みんなの党もふくめて既存政党が負けたと見るのが妥当なように思われます。つまり、有権者の大半は河村市長一派が掲げる減税などの政策を支持して一票を投じたというよりは、減税日本に表を投じることでとにかく既存政党(および名古屋の場合は議会の振る舞い)を負けさせたい、懲罰を加えたいという意識ではなかったかと思うわけです。
もちろん、これは各位が懸念されるような閉鎖的・排他的な自地域中心主義に傾く危険性はあるわけですが、とりあえず現時点では私の生活実感、たとえばスーパーの店頭に置かれた募金箱の紙幣の積み上がり具合などからすれば、少なくとも愛知県民も復興のための財源の一部を負担すべきことには自覚的なように思われるわけです。まあ河村市長一派が主張する住民税減税額ほどに募金されているかどうかはわかりませんが、市民の意識としては、自分たちの納税の使途として被災地復興にあてられることに対する異論は少数ではなかろうかと思われます。たしかに名古屋市民の中には可処分所得が伸び悩む中で経済活性化のために減税が必要との意見もありましょうが、いずれにしても税に対する不満の太宗はその使途に対するもので、復興財源とするために税負担を求められることに名古屋市民の不満があるとは考えにくいように感じます。
そもそも、名古屋市議選、あるいはそれに先立つ名古屋市長選、愛知県知事選で見られたような現象は、全国各地の地方選で多かれ少なかれ見られたわけで、たまたま愛知・名古屋では河村市長一派という強力な受け皿があったからそうした結果になったわけで、もし受け皿があれば他の自治体でも類似の現象が観測されたであろうと想定することにそれほど無理はないように思います。
したがって、4月10日の地方選第一弾でも、受け皿のある自治体では類似のことが起こるだろうとは容易に想像できるわけで、それは震災復興財源云々とは基本的に無関係に起きる事象でしょう。というか、災害発生後の政権の体たらく、とりわけ首相の振る舞い―――たとえばほとんど自ら説明することなく、官僚と民間人(東電ですが)を罵倒するに終始する―――をみると、まあ4月10日においても民主党が得票を集めることは期待しにくいと思うのもそれほど度外れた考え方でもないでしょう。
ただまあ、その受け皿が絵に描いたようなポピュリズム政党だったことについては残念な思いは当然あるわけですが、いっぽうで名古屋市議選の結果をみると減税日本過半数には達しなかったわけで、河村市長が圧勝した名古屋市長選の結果からみればかなりバランス感覚を回復しているという見方もできるのではないかとも思うわけです。
後者についていえば、とりわけ被災地における自治体職員のみなさんのご尽力には私としても敬服するよりありません。それには最大限の敬意を払うわけではありますが、その一方で、前のエントリで労働基準監督署について書いたように、それが公務員の実態をすべて正当化するかといえば必ずしもそうではないだろうなと思うわけでもあります。
公務員がポピュリズムの標的になりやすいことについては、このブログでも過去のエントリで何度か書いてきました。現時点では、私は公務員の仕事の効率についてはまあわからないという立場で、とりわけこうした非常時におけるパフォーマンスまで考慮するとなるとなおさらかなとは思います。そのうえで最大の問題は、それ単体を取り上げてみると国民・住民の目からみて明白な無駄としか見えない*1ものをあからさまに放置していることにあると考えています。

*1:ただし、これはその他の場面まで含めたトータルでは合理的になっている可能性があります。典型例としてはいわゆる「天下り」における外郭団体からの退職金がありますが、しかしこれとて若年期に貢献をはるかに下回る賃金しか得られていなかったことの埋め合わせとしては合理的な可能性があるわけです。