成長分野に特化せよ

首相退陣で政界は大騒ぎのようですが、そんな中でも「雇用戦略対話」は粛々と?開催されたようです。「対話の構成員は、内閣総理大臣、副総理、国家戦略担当大臣、内閣官房長官及び厚生労働大臣並びに労働界・産業界を始めとする各界のリーダー及び有識者とし、内閣総理大臣が主宰する」となっていますが、内閣総理大臣は出席されたのでしょうか?

 政府は3日、政労使などで構成する雇用戦略対話で、企業が従業員に支払う義務を負う最低賃金について、2020年までに全国平均で時給1000円を目指すとの目標を正式に決めた。都道府県ごとに異なる最低賃金の下限を、できる限り早期に800円まで引き上げることでも合意した。ただ、平均で名目3%を上回る経済成長や中小企業支援に取り組むことを実現の前提とした。
(平成22年6月4日付日本経済新聞朝刊から)

もともとこの目標は昨年末の「新成長戦略」の「雇用・人材戦略」で、『若者フリーター約半減』『ニート減少』『女性M字カーブ解消』『高齢者就労促進』『障がい者就労促進』『ジョブ・カード取得者300万人』『有給休暇取得促進』『最低賃金引上げ』『労働時間短縮』の各項目について「雇用戦略対話等を踏まえ2020年までの具体的目標を定める」とされていたのを受けて定められたものです。ということで目標はさらに多岐にわたって設定されたのですが、最低賃金だけが最後まで決まらずに残っていたということで、こうした報道になったのでしょう。
で、きょう取り上げるのは実は最低賃金の話ではなくて(それは5月31日のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20100531#p2でもやりましたしね)、同じく一部ペンディングになっていた「非正規労働者を含めた、社会全体に通ずる職業能力・評価制度の構築」「職業分野ごとに求められる能力等に対応した教育システム(学習しやすい教育プログラム、質の保証)の構築」の話です。
この構想は、緊急雇用対策本部傘下の「実践キャリア・アップ戦略推進チーム」がまとめたもので、推進チームが開催された際にはこう報道されています。

 非正規社員の待遇底上げを目指す政府の「実践キャリア・アップ戦略推進チーム」(主査・仙谷由人国家戦略担当相)の初会合が25日、開かれた。会合では、会社を辞めても次の就職希望先が同一業界ならば、適正な待遇で見つけやすくなるよう、新たな職業能力制度「キャリア段位」の導入に向けた本格的検討に入ることを決定。6月にまとめる新成長戦略に、今後5年間の導入計画を盛り込むことも確認した。
 キャリア段位は、分野ごとの実践的な職業能力を客観的に評価する制度。企業で働きながら業界横断的な職業能力の「段位」を取得できるのが特徴で、政府は業界団体や教育機関と連携、介護や環境など成長分野でまず普及させたい考えだ。
時事通信ニュースhttp://www.jiji.com/jc/zc?k=201005/2010052500999

 この会合の資料として「「実践キャリア・アップ戦略」構想―骨子案―」が提示されており(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kinkyukoyou/suisinteam/CPdai1/siryou3.pdf)、それによると「若者や非正規労働者など能力育成の機会に恵まれない人々の増大や、企業の人材育成機能の低下が指摘されている」ので、「職業能力評価と教育・能力開発を結び付け一層の体系化を図った上で、一企業内にとどまらず社会全体で実践的なキャリア・アップを図る戦略プロジェクトを推進する」となっています。具体的には「5か年目標」を策定して進めるとのことで、おもだった中身を抜き出すとこうなっています。

1)戦略分野の選定
 ・介護、保育、農林水産、環境・エネルギー、観光などの新成長分野を想定
 ・「人づくり」の効果や、外部労働市場における活用可能性が高い一般事務、医療・貿易事務、ホスピタリティ・サービス等を想定

2)職業能力評価制度(『キャリア段位』制度)の導入(「日本版NVQ」の創設)
 ・実践的な職業能力を明確化し、教育・能力開発と結び付け、能力を客観的に評価する『キャリア段位』制度を導入
 ・職業能力を証明するツールとして、ジョブ・カードの利用促進を図るなど、既存の職業能力評価、資格、訓練カリキュラムなどのツールを有効に活用
 ・一企業にとどまらない制度とする

3)各分野の職業能力育成(キャリア・アップ)プログラムの策定
 ・企業内OJT重視:日本の企業内OJTの実績も活用する観点から、『企業内OJT+外部機関の座学』を重視
 ・フリーター等の若者や母子家庭の母など、まとまった期間や時間が取れない人向けの教育や、リカレント教育に向けた「育成プログラム」として、学習分野・内容をモジュール化し、積上げ可能な「学習ユニット積上げ方式」を導入(イギリスのQCF)

…ということで、実践にあたっては「「実践キャリア・アップ制度」と大学・専門学校等の教育機関との連携を図り、新しい分野に即応できる就業力を育成しつつ、職業分野ごとに求められる資格や能力等に対応した教育システム(学習しやすいプログラム、質の保証)を、職業能力評価に照らしつつ構築する」「職業訓練機関についても連携を図り、質保証等の観点から効果的な職業訓練プログラムを提供する」…のだそうです。
実際には、職種別の技能水準を標準化しようというのはそれほど目新しい話ではなく、むしろ不況で雇用情勢が悪化するたびに持ち出されてきた話です。ただ、モデル産業を決めて試行的にやってみたこともありましたが、今のところうまくいったという話はあまり聞いたことがありません。そのレベルでも難しいというのに、さらに「適正な待遇で」ということで賃金にまでリンクさせるとなると、これは相当の難題になりそうです。電機連合は職種別賃金を掲げていて、将来的には業界横断的な賃金水準づくりをめざすとしていますが、今のところは春闘での賃金要求を職種別のポイント賃金にするといった取り組みにとどまっています。わが国では、同一業界の同一職種でも個別企業の業績などに応じて賞与だけではなく月例賃金も異なるのがむしろ当然とされていますので、電機連合のこの取り組みはすでにかなりチャレンジングなものです。しかも、労組が電機連合傘下の各社はすでにそれぞれ独自の人材育成体系を確立しており、賃金制度もそれに応じたものになっているでしょうから、業界横断的なしくみを作るのはますます難しいでしょう。
そう考えると、この「実践キャリア・アップ戦略」もおよそうまく行くとは思えないわけですが、実はそうでもなさそうなのです。
というのは、最初に「戦略分野の選定」を行うというのがミソで、まず「介護、保育、農林水産、環境・エネルギー、観光などの新成長分野を想定」するという。つまり、電機産業のような、企業内育成のしくみががっちりと出来上がっている産業ではなく、これから成長していく、企業内育成のしくみがまだ確立されていない産業を選ぼうというわけです。各社独自に作り上げられたものを一律に揃えるよりは、何もないところに一律の絵を描くほうがはるかに楽なことは見やすい理屈です。
しかも、「外部労働市場における活用可能性が高い一般事務、医療・貿易事務、ホスピタリティ・サービス等を想定」するという。要するに企業特殊的な要素の入り込みにくい、横断的な標準化が比較的やりやすい仕事を選ぶ、と言っているわけです。もうひとつ重要なのは、「一般事務」といった例示をみると、あまり高度なレベルの業務までは想定に入れていないと思われる点です。実際、イギリスのNVQも機能しているのは技能レベルが「中の下」くらいの水準までらしいので、これは現実的な考え方といえるでしょう。
これをまとめた「実践キャリア・アップ戦略推進チーム」のメンバーをみると(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kinkyukoyou/suisinteam/CPdai1/siryou1.pdf)、仙石大臣が主査、関係副大臣が副主査となってはいますが、実質な内閣府厚生労働省文部科学省経済産業省の事務方です。しかも、公式な会合を持ったのはこの会合たったの一度だけですから、実態としては官僚メンバーが何度か集まってまとめたものを追認したのでしょう。「政治主導」とは程遠い進め方ですが(笑)、しかし「若者や非正規労働者の能力育成、適切な待遇での就労促進」といった政治的要請に応えつつ、それなりの実現可能性があり、かつ悪影響や弊害を最小限にとどめる案をまとめたわけですから、わが国の官僚はまことに有能であると申せましょう。本当にうまくいくかどうかは、これはやってみないことにはなんともわかりませんが、しかし戦略分野が本当に「成長分野」であるならば、当然人手不足基調になるわけで、であればある程度のスキルをあらかじめ習得した人の就職は進むだろうと予想できます。具体的成果が上がるという意味でも、成長分野に特化することは重要です。
したがって、このプロジェクトを推進する上での最重要のポイントは、戦略分野を適切に選定し、それ以外の分野に拡大しようという野心は絶対に持たないということでしょう。もちろん、さらに新たな成長分野が生まれ、その中にこうした取り組みに適合するものがあるのであれば、それに拡大していくことは問題ないだろうと思いますが、すでにできあがっているものを壊そうとするのはうまくいかないでしょう。
現実的に予測されるのは、仮に今回の戦略分野でこの制度がうまく導入・普及したとして、戦略分野が成長分野から成熟分野に移行するころにはある程度高度な能力、同業他社との差異化をはかることができるスキルが重要となってくるでしょう。この制度でそこまで対応できるとも思えませんので、おのずとそれを企業内育成するしくみが各社で構築されていくだろうと思われます。もちろん、大学などでのリカレント教育の重要性は残るでしょうが、当然、転職・企業間移動は減少し、賃金制度なども各社に独自なものに分化して、その分野では徐々にこの制度は形骸化し機能していなくなっていくでしょう。その時には、それまでの経験を生かして、さらに新たな適切な成長分野で同様に取り組んでいけばいいわけで、制度も不断の進化が求められることになります。それができれば、これはまさに新卒者など労働市場への新規参入者を成長分野へ誘導し、労働力の面から産業構造の転換を進めるしくみになるわけです。
つまり、教育機関の職業面での役割としては、新規・成長分野に対してはそこで求められている初級スキルを付与することでそれら分野への就職を促す一方で、企業内育成のしくみが確立した成熟分野に対しては、潜在的な成長力の高い人材を供給していくということになるのだろうと思います。