郷に入りては

ベストセラー作家の村上龍氏が主宰するメールマガジン「JMM」の本日配信号で、「国際税務専門職、ニューヨーク、マンハッタン在住」の肥和野佳子氏が「米国の雇用形態とオフィス・カルチャー」と題して、米国の状況を紹介しています。たいへん興味深い内容なので、備忘的に転載します。

 米国の会社で、フルタイムの正社員の雇用契約は一般的には”Employment atwill”といって、特に雇用契約期間を設けず、いつでも辞められるし、いつでも解雇でき、解雇にあたって特に理由は要らないという契約になっている。報酬は年俸で決まる。ボーナスは会社やポジションによって、ある場合とない場合がある。大きな会社には401K(確定拠出年金)のほかに、企業年金があり、会社によって異なるが、同じ会社に4年か5年以上勤務すれば企業年金を受け取る権利が付与され、年俸、職位、雇用期間の長さによって、それなりの額の企業年金を引退後に受け取ることができる。フルタイムの正社員は週40時間労働が基本だが、近年は子持ちの女性などは正社員の職にあっても、週3〜4日勤務とか、一日6時間勤務とか希望する場合は、年俸を時給換算して、フルタイムより少ない額の年俸をもらうという選択もある。
 フルタイムの正社員の雇用形態はExempted Employee(裁量労働)とNon-Exempted Employee(非裁量労働)という種類があって、Exempted Employeeの場合はいくら長時間働いても残業代はつかないが、その分、年収は高く設定されている。一般的には、大学卒以上で比較的複雑性の高い職務の従業員はたいていExempted Employeeだ。Non-Exempted Employeeの場合は残業すれば残業代がつく。残業代は通常の50%増しの金額が支払われる。50%増しだと残業時間が多いと会社は人件費がかかるので、残業には上司の許可が原則的に必要で、勝手に残業できない。マニュアルレーバーや、高卒、短大卒、就業2年目までくらいの大学卒で、比較的仕事の複雑性が低く、責任も重くない一般事務職などの従業員はたいていNon-Exempted Employeeだ。

 米国ではパートタイム従業員は必ずしも安上がりな労働力ではないので少ない。エージェントを使ってパートタイムを雇うことはあるが、時給は結構高いので高くついてしまう。一定の規模以上の企業が直接パートタイム従業員を雇う場合、年間一定時間以上働く人には健康保険も有給休暇も与えなければならない。フルタイムの正社員でも、特に理由がなくても自由に解雇できるし、Exempted Employeeならば残業代を支払わなくてもいい。パートタイムは週に20時間だけとか、3ヶ月間だけとか、本当に短期労働が必要なときに雇う。パートタイムよりフルタイムの正社員を雇うほうが安上がりという構造になっている。
 たとえば、ニューヨークの一般企業でパートタイムで、あまり経験の要らない簡単な一般事務の仕事を、その企業と直接契約でする場合、時給は20ドル程度が相場だ。エージェントを通すとその1.5倍くらいだろう。フルタイムの正社員として雇う場合は、年収30,000ドルから35,000ドルくらいかと思う。まあ、32,000ドルとしてその年収をひと月20日間、1日8時間労働として時給を割り出すと、16.7ドルになる。パートタイムでも長期間働けばベネフィットは付けなければならないので、時給20ドルのパートタイム職員を年間ずっと雇うことにメリットは特にないのだ。したがって、労働市場には何歳になっても、男性も女性もフルタイムの正社員の仕事はけっこうたくさんある。状況に応じてパートタイムの仕事もある。ちなみに最近米国で行われた国勢調査のフィールド調査員の短期雇用の時給は25ドルだった。
 オフィスでは、従業員の階層はけっこうはっきり分かれている。それぞれ職務上、求められるものが違うので、職務の階層が違う人とは仕事以外の交流は少ない。ランチを一緒に食べることもあまりない。それくらい役割分化、階層分化がはっきりしている雰囲気だ。
 いわゆる専門性のない一般事務職の人は、高い教育が求められず、年収も低い。出世もなく万年同じ仕事をするだけで、長年勤務しても上限があって一定の年収以上はあがらない。専門性が高く、一定の権限を持つ職務の人は大卒以上は当然で、大学院卒も多い。年齢に関係なく最初から一般事務職より上のポジションで入ってくる。学歴主義はかなり厳しい。たとえば大卒でない人が、大卒以上のポジションと決まっている職務に内部昇進したい場合は、いくら仕事ができてもだめで、大卒の学歴をまずとってこなければならず、働きながら夜間の大学に通ったりして(会社によって学費補助が出る)、ようやく昇進を果たすことがある。
 多少の職歴があり、いわゆるレベルの高い経営学大学院のMBA(経営学修士)などをもつ人が入ってくる場合は、最初からVP (Vice President)のポジションで入ってくる。…日本で言う「副社長」では全くな
い。会社にもよるが、あえていうなら「係長」くらいのものだ。…30歳代の若い人が多い。

 米国の企業では、雇用されるときから、職務はある程度明記されていて、自分の一定量の仕事の範囲・権限の範囲がかなりはっきりしているので、その日にすべき自分の仕事が終わったら帰るのは当たり前のことで、仕事がたまっている他人の仕事を自ら手伝うということはない。そんなことをしたら、誰がやった仕事かわからなくなり、責任の所在がはっきりしなくなるのを避けるためでもある。日本では個人の仕事の範囲があまりはっきりしていなくて、自分の仕事が時間内に終われば、探してでも別の仕事をしたり、終わっていない他人の仕事を引き受けたりするのが美徳とされることもあるようだが、米国の企業ではそのようなことはほとんどない。
 Exempted Employeeである場合、時間給で雇われているわけではないので、就業時間も柔軟性がある。午前9時から午後5時までとか一定の就業時間の原則はあるにしても、基本的に出退社や休憩時間は個人の判断で決めることで、こと細かに会社に管理されることはない。もちろん、急ぎの仕事があるときや必要のあるときは、昼休みも取れないくらい仕事をしなければならないときもあるし、夜遅くまで帰れないときもある。残業代がつかないかわりに、Exempted Employeeの従業員は働く時間の自由裁量がある程度あるわけだ。具体的には、忙しいときに長時間働くこともあるのだから、たいして忙しくないときは、たとえば4時台に帰ってもかまわないし、特別理由のあるときは“Work from home”といって、パソコンを持ち帰って今日は自宅勤務にすることもあるのが普通の米国のオフィス・シーン。
 私は会計監査の仕事で、いろいろな企業を見てきたが、それぞれの企業で求められるものは違うが、一般的には、従業員の帰りは皆早い。午後6時にはオフィスにはもう誰もいないというところが多い。Exempted Employeeは残業代は出ないので、上から下まで誰もが不必要な残業はしない。必要な残業はもちろんやる。いくら長い時間働いても意味はなく、実際結果が出せなければ解雇になるだけだ。不必要に遅くまで残っている米国人は家庭不和で家に早く帰りたくない人くらいだ。

 昼休みのとりかたも日本と違う。12時半ごろからとる人が多い。昼休みは12時から2時の間の任意の1時間程度というのが一般的。仕事をさっさと済ませて早く家に帰りたい人は、15分くらいでランチを済ませて、その分、早く家に帰る人もいる。昼休みにフィットネス・ジムに通う人もたくさんいて、Lunchtime gym goerは、たいてい昼休みを90分くらいとる。基本的に週に40時間働いて、ちゃんと年収にみあう、やるべき仕事をやっていればそれでよいのだ。…
 米国にある日系企業の場合、日本のままのオフィス・カルチャーをひきずっているところもあり、米国現地社員の不評を買うことも少なくない。たとえば、私の友人(永住権をもつ40代の日本人女性)の例だが、NYにある某日本企業で、彼女は自分の仕事が終わればさっさと帰るのが普通で、彼女の上司(日本人男性)が、あるとき、「下の者がまだ忙しく働いているのに、上に立つ者が先に帰るべきでない。」と言った。彼女は「役割が違うのだから、忙しい時期がずれるのはあたりまえ。彼らがした仕事が終わってからそれが正しくできているかチェックをするのが自分の役割。私が忙しい時期はこのあとに来る。データ・インプットの仕事は私が手伝える仕事でもないし、居残る理由はない。」と答えたそうだ。…その半年後に、彼女はその会社をさっさと辞めて米国の会社に移った。

 また、別の例では、某日本企業の日本人の上司が、Exempted Employeeの部下(30代の米国育ちの日本人男性)に対して、「デスクを離れてからデスクに戻るまで昼休みは60分以上とるな。医者にいくとか特別な事情でもなければ、昼休みは60分以上、席をあけるな。アメリカといってもここは日本の会社だ、勘違いするな!」と怒鳴った。
 彼は昼休みにはジムで体を鍛えるのが日課だった。…彼は、HR(人事部)に訴えた。Exempted Employeeの従業員が昼休みのジム通いで75分休もうが90分休もうが、特に急いでやらなければならない仕事がないのであれば時間管理は本人の自由。勘違いなのは、この上司、当の本人ということで、彼の上司はHRから注意を受けた。
 いくら日系企業でも米国で仕事をする以上、米国の労働法やオフィス・カルチャーに従わなければ、従業員に訴訟を起こされるリスクがある。 日系企業の場合、実際、けっこうなリクルートコストをかけて、せっかく人を採用してもオフィス・カルチャーがあわなくて有能な従業員に短期間で辞められてしまうことは少なくないようだ。つい最近も、日系の金融機関で働く日本人駐在員男性が、「米国人のディーラーが3人も急に辞めて、残った自分は大忙しで、昼休みに歯医者にも行けない。」とぼやいていた。
 日本と違って、米国の労働市場流動性が高く、次の仕事は比較的簡単に見つかるので、自分の実力に自信のある人はひとつの会社にしがみつく必要などないのだ。長く勤務することに大きなメリットもない。従業員は条件のよいところにどんどん移っていく。うかうかしていると、日系企業では解雇は少ないので、長く働いているのは他の企業では同じ年俸では雇ってもらえないような労働市場価値の低い従業員ばかりということになりかねないリスクもある。
 日本の企業は欧州、北米、南米、アジア、オセアニア、アフリカと世界へどんどん進出せざるを得ない状況になっている。郷に入れば郷に従え、どこの国へ進出するにしてもその国のカルチャーを尊重し、現地従業員の満足度を高めないと、優秀な人材を集めることができず、他国の企業に遅れをとることになるかもしれない。現地従業員に選ばれる魅力的な企業であるよう企業側も努力することが大事だ。

私にも米国勤務の経験がある、あるいは現に米国で勤務している友人がたくさんいますが、彼らの話を聞いても、ニューヨークのそれなりにいいポジションの会社でそれなりにいいポジションの仕事をしている人の実態はこういったもののようです。この人はなかなかバランスの取れた人のようで、「郷に入れば郷に従え、どこの国へ進出するにしてもその国のカルチャーを尊重し、現地従業員の満足度を高めないと、優秀な人材を集めることができず、他国の企業に遅れをとることになるかもしれない。現地従業員に選ばれる魅力的な企業であるよう企業側も努力することが大事だ」という結論はまったくそのとおりだと思います。いかにグローバル化の時代とはいえ、労働市場は基本的にローカルなものですから、その土地の慣行や価値観を尊重しなければうまくいかないことは明らかです。もちろん、100%合わせなければいけないというわけではなく、理解や納得が得られるのであれば日本流のやり方を導入することもできるわけで、それは日本に進出した外資系企業がそれなりに本国流のやり方を日本でも導入しているのと同じことです。ここで上げられている例のように、日本流が正しいと決め付けて押し付けるようなやり方ではダメだということでしょう。
さて、この人はまことに適切にも米国のやり方がいいとか日本のやり方が悪いとかいうことは言っていない*1のですが、さらっと読むと米国がすばらしいと思ってしまう人もいるでしょう(そんなにはいないかな)。パートタイムと正社員の賃金があまり変わらない、労働時間が短い、働き方が柔軟、自分の仕事が明確に決められている*2、年齢・年功とは無縁…といった点に魅力を感じる人は多いでしょう。
とはいえ、それと引き換えに受け入れなければならないものもまた大きいわけで、中でも最大のものが「いつでも解雇でき、解雇にあたって特に理由は要らない」という点でしょう。要するに、この点では米国の正社員は日本の正社員とまったく異なり、むしろ非正社員に近いでしょう。米国はむしろ全員が非正社員の社会といえるように思います。
また、賃金水準の問題もあって、文中にもあるように「フルタイムの正社員として雇う場合は、年収30,000ドルから35,000ドルくらい」です。いまのレートだと年収270万円から315万円くらいということになります。そして「出世もなく万年同じ仕事をするだけで、長年勤務しても上限があって一定の年収以上はあがらない」わけです。そうでないのは「学歴主義はかなり厳し」く、「大卒以上は当然で、大学院卒も多い」「専門性が高く、一定の権限を持つ職務の人」「多少の職歴があり、いわゆるレベルの高い経営学大学院のMBA(経営学修士)などをもつ人」であって、実は労働者の大半は年収35,000ドルで昇給のない世界にいるわけです。このあたりも、米国の格差社会、階級社会の一面なのでしょう。
「日本と違って、米国の労働市場流動性が高く、次の仕事は比較的簡単に見つかる」というのは日本との比較においてはそのとおりなのですが、当然ながら不況期の転職は難しいですし、高専門性・高給の仕事ほど見つかりにくくなるという傾向はあります。冷戦終結連邦政府が軍事予算を大幅に絞った際には軍や軍需産業の研究所で働いていた多数の博士が失業しましたが、彼らの相当数はすぐには適当な仕事がみつからず、セブン=イレブンで働いていた、という話がありました。で、彼らはその高度な技術力を生かして起業して成功を収めた…という話*3になって、「それが米国の成長と活力の源泉であり、日本でも中高年を解雇すれば彼らが起業して経済が活性化する」といった話が一時期の日本でさかんに主張された(今でも言っている人はいますが)わけですが、ことほどさように「いい仕事」にありつくには米国でも困難がともないます…それでも日本に較べれば困難の程度はかなり低いのでしょうが。
ただ、これは裏を返せば米国では外部労働市場並みの賃金しか支払われていない、ということでもあるのですね。日本では企業特殊的な熟練に対しても賃金を支払いますから、外部に出るとそれが剥落して賃金が低下することが多い。これに対して米国では流動性が高いので企業特殊的熟練を蓄積する動機が労働者にも企業にも低く、したがって外部労働市場並みの賃金を支払えば足りる。それゆえ転職時に賃金が下がりにくい、ということになるわけです。
もちろん、日本においても同様、雇用保障や内部昇進、企業特殊的熟練への賃金支払いといったものと引き換えに差し出しているものは決して小さくないわけですから、米国と日本とを比較して単純にどちらがいいとか悪いとか言えるものではありません。要するに、各国の労働市場にはそれぞれにローカルな特徴があって、その全体を見ることが大事であり、いいところだけを見て「日本もそうすべきだ」という議論をすべきではない、ということです。そして、しくみを変えるにはそれなりのコストがかかることを考えれば、他国をまねた大きな変更には相当慎重であるべきだろうと思います。

*1:往々にして、この手の海外の話になるとどうしても自分がいる国がすばらしくて、それに較べて日本はいかにダメかという論調になることが多く、特に北欧マンセー厨の方々にその傾向が強いように感じる(あくまで感じるだけ)のですが、この人はたいへんバランス感覚の優れた人のようで感心させられます。

*2:私は他人を手伝うのも嫌いではありませんし、他人に手伝ってもらうのは好きですが、米国では手伝ってもらうと「自分の手柄を取られる」と感じて嫌う人が多いようです。もちろん、日本でもそういう人はいますが。

*3:もちろんその影には多くの失敗もあるはずなのですが、それがわが国で語られることはあまりありません。