「「社会保障で成長」は誤り」鈴木亘学習院大学教授

日経のつけたと思しき見出しは「負担先送りは不可能 景気対策の効果も疑問」です。まあ、かなりキツい表現なので、これ自体も一部の方を刺激するに十分なのでしょう。

 6月に始まる子ども手当の支給や、10年ぶりの診療報酬のプラス改定など、民主党衆院選で公約した社会保障費拡大は、今年度の政府予算を過去最大の92.3兆円にまで押し上げた。しかし、政権公約マニフェスト)に盛り込んだ項目のうち、今年度予算に反映されたのは、まだほんの一部にすぎない。本格的に反映される来年度予算は100兆円規模になることが見込まれている。

 問題は、こうした社会保障費の再膨張が、消費税など「負担」の引き上げ無しに行われていることである。このため、今年度は過去最大の44.3兆円にのぼる新規赤字国債を発行する。菅直人副総理・財務相は来年度の国債発行額を今年度以下に抑制する方針を打ち出したが、実際にはさらに多額の増発が予想される。

 財政上の制約を考えれば(1)負担を引き上げない代わりに社会保障費を抑制するか(2)社会保障費を拡大させる代わりに負担を引き上げるかの2つの選択肢しか存在しない。負担を引き上げずに社会保障費だけを拡大させるとすれば、借金を重ねて将来世代に負担を先送りする無責任極まる政策運営となる。そのような政策は持続可能でもない。
(平成22年5月17日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、断りのないかぎり以下同じ)
http://www.nikkei.com/paper/article/g=96959996889DE2E5E7E2E6E4E2E2E3E7E2E7E0E2E3E29997EAE2E2E2;b=20100517

ここまでは事実の要約であり、それほど不公平な要約でもなさそうなので、特に議論もなさそうです。現実には菅財務相国債発行額抑制方針は民主党参院選マニフェストにも取り込まれるらしいのですが、まあ常識的に考えて「さらに多額の増発が予想される」と書いてもひどく不公平ということはないでしょう。

 こうした批判に対して、民主党政権は最近、それを回避する良い口実を見つけたようである。すなわち、借金による社会保障費拡大を「中長期的な成長戦略」や「景気回復策」であると位置づけ、「福祉経済」なる呼称で、自身の政策を正当化しようとしている。この理論は、昨年12月末に閣議決定された「新成長戦略」で示された。
 しかし、これは科学的根拠を欠く典型的な「まじない経済学(Voodoo Economics)」であり、問題が多い。まず、成長戦略とは通常「潜在成長率」を高める政策を指す。潜在成長率とは民間が自力で維持できる成長率のことであり、規制緩和や社会資本の整備などによって高められる。財政政策による一時的な需要刺激とは全く異なる概念である。

「口実」とか「ヴードゥー・エコノミクス」とかの手厳しい表現が反発を招いている部分もありそうですが、それはそれとして、「福祉経済」という語が実は私には初耳*1でした。ざっとぐぐってみた限りでもほとんど見当たらず、最初にヒットするのは鈴木先生ご自身が自らのブログで「福祉経済」を批判しているエントリで(笑)、とりあえず見つかったのが藤井裕久氏の発言です。

藤井裕久民主党最高顧問)

 それは、なによりも、雇用対策と言うのは経済を伸ばすことかもしれませんが、あえて、それに加えて申し上げたいんですがね、やはりね、福祉経済てのが大事だと思うんです。たとえて言えばですよ、福祉の分野です。
 たとえば、介護でもいいや。このところは人不足なんですね。人不足なんです。ですから、そういうところに資金を回すことによってですね、雇用の機会をつくると。
 全般のもちろん物作りやなんかのことも大事です。だから、それはやらなきゃならない。しかし、あえて加えさせていただくと、福祉経済という特に北欧はそういうことを言っておりますね。福祉経済というなんというか雇用の確保をしたいと思います。
http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/http-1.htmlから孫引き)

はあ、北欧が「福祉経済」なんですか。うーん、北欧が福祉国家だというのは間違いないので、北欧の経済は福祉経済だ、ということになるんでしょうかね?
それはそれとして、藤井氏のいうところは、介護などの福祉分野には多くの潜在的な需要があるから、それに関連する社会保障給付を増やしてやれば需要が顕在化するだろう、そうすれば福祉関連産業が成長して雇用も増えるだろう、ということのようです。これはたしかに、昨年末の「新成長戦略」でも示されている考え方です。
鈴木先生はこれに対してこう批判します。まず、潜在成長率についてです。

 医療費や介護費を増大させることは、潜在成長率を引き上げるだろうか。日本の場合、自由診療や私費介護の割合が極端に低く、保険診療・介護の自己負担率も低いため、医療・介護費の大部分は保険給付費である。このうち、後期高齢者医療制度の給付費の半分は公費で賄われるため、実は、医療保険全体の約4割を公費で負担している。介護保険に至っては、公費の負担割合が6割近い。
 つまり、日本の医療・介護産業は、多額の公費投入によって支えられている産業であり、自律的な成長が期待できる分野ではない。医療・介護費を増やせば自動的に多額の財政支出増となることを考えれば、これは成長戦略というより、一時的な財政政策と見るべきである。
 もちろん、基礎年金財源の半分も公費負担であるから、年金についても同様である。しかも、赤字国債発行により将来世代に負担を先送りして社会保障費拡大を行っている状況では、これらは単なる「需要の先食い」というべきであり、成長戦略からは程遠い。
 また、社会保障費支出は基本的に消費だから、将来の成長につながる社会資本も整備されない。もちろん、不足している介護施設の建設など投資の側面も皆無ではない。しかし、例えば規制だらけの特別養護老人ホーム建設費は1ベッド当たり約2000万円に上るなど、公費の使い道として恐ろしく非効率である。

これは民主党に若干気の毒な部分もあって、拡大した社会保障給付を将来にわたって継続するのであれば、一応は福祉分野の成長は高まるでしょう。新成長戦略は財源への具体的な言及はありませんが、仮に福祉産業が急成長して経済拡大を牽引し、その結果税収が増えて赤字国債を減らすことができるというバラ色の絵が実現できるのであればいいわけです。ただ、鈴木先生はそうはならないだろうと(私もなんとなくそう思います)考えておられるわけで、財源の制約で社会保障給付の拡大が持続的でない、いずれ縮小せざるを得ないときが来るのであれば、たしかに「一時的な財政政策」ということになるでしょう。
なお、特別養護老人ホームも明らかに供給不足で、これは鈴木氏もいうように社会資本でもありますので、規制の必要性を吟味した上で不要な規制は緩和・撤廃し、より効率的に公費が投入できるようにすることで建設の促進をはかることが必要だろうと思います。

 それでは、景気対策という観点からは妥当であろうか。当然、公費をかければそれだけの政府支出増となるから、実際の国内総生産(GDP)成長率が潜在成長率を下回る状況下では、財政支出以上にGDPを押し上げる乗数効果はある。特に介護分野への政府支出は、産業連関表を用いた研究によって、公共工事よりも乗数効果が若干大きく、雇用増加率も高いことが知られており、優れた景気対策であるといわれている。しかし、雇用増加率が高いのは、単に介護分野で非正規労働者が多く、賃金が安いことを意味しているにすぎない。

まあ、それでも公共工事よりは若干なりとも乗数効果が大きいというのであれば、景気対策としての意義は認めてあげてもいいんじゃないでしょうか。雇用増加率についてはご指摘のとおりで、労働条件の違いを考慮に入れる必要があります。ただ、賃金の高い雇用を増やすために介護への支出ではなく公共工事を選ぼうというのが妥当かどうかは疑問で(鈴木先生もそこまでは言っていないと思いますが)、藤井裕久氏もいうように介護分野は人手不足で、その主な原因の一つが低労働条件なのですから、支出増を労働条件向上に割り当てることも十分考えられるでしょう。もし人手不足が介護産業の成長の制約要因になっているのであれば、労働条件向上で人手が集まり、事業が拡大することでさらに雇用が拡大するという好循環が実現できる可能性もあります。まあ、どこまで期待できるかは難しいところですが、やってみる値打ちはありそうな気もしなくはありません。

 景気対策としては「社会保障費を増大させれば、国民が年金などに不安を感じて保有している過剰貯蓄(予備的貯蓄)を取り崩して消費拡大が起き、とりわけ高齢者の消費拡大が大きい」との主張もある。確かに、約1400兆円の家計金融資産のうち、60歳以上の高齢者が保有している金額は約785兆円にも上るから、それに期待する気持ちはよく分かる。
 しかし、筆者と労働政策研究・研修機構の周燕飛氏が行った研究によれば、高齢者の年金不安による予備的貯蓄は、最大限見積もっても35兆〜40兆円程度にすぎない。また、予備的貯蓄はストックの資産であるから、1回使ってしまえばそれっきりである。例えば、10年かけてゼロにするとしても、その間のGDPへのインパクトは毎年0.8%程度にすぎない。
 さらに、予備的貯蓄があるからといって、社会保障費拡大により高齢者がそれを取り崩すかどうかは全く別問題である。資産選択行動の諸研究が明らかにしているように、日本の高齢者の危険回避度は非常に高いため、多少の社会保障費増大では高齢者の安心を勝ち取ることは難しい。筆者と経済産業省の小滝一彦氏、児玉直美氏が行った研究では、介護保険の設立前後における高齢者の予備的貯蓄の変化をみているが、驚くべきことに、介護保険ほどのインパクトの大きな政策に対して、日本の高齢者は貯蓄を全く減らさなかったのである。

へー、そうだったんだ。「高齢者の年金不安による予備的貯蓄は、最大限見積もっても35兆〜40兆円程度にすぎない」というのは不勉強にして初めて知りました。また、「日本の高齢者の危険回避度は非常に高いため、多少の社会保障費増大では高齢者の安心を勝ち取ることは難しい」というのが「介護保険の設立前後における高齢者の予備的貯蓄の変化をみているが、驚くべきことに、介護保険ほどのインパクトの大きな政策に対して、日本の高齢者は貯蓄を全く減らさなかった」ほどに甚だしいということにもたしかに驚かされました。だとすると、たしかに新成長戦略の「高齢者が将来の不安を払拭し、不安のための貯蓄から、生涯を楽しむための支出を行えるように医療・介護サービスの基盤を強化する」というのは成り立ちにくいでしょう(新成長戦略は年金には言及していませんが)。
なぜ高齢者の危険回避度がここまで強いのか、理由はいろいろ考えられるでしょう。子孫に資産を残したいというダイナスティ仮説は、マクロではともかく個人レベルではまだ有力で、相続を期待させることで子などによる世話を確保しようとしているとの意見もあります。民主党のいうように社会保障が不足だということもあるかもしれません。ただ、社会保障については財源まで含めて考えるべきだというのが鈴木先生の説のようです。

 現在の社会保障費拡大に伴う赤字国債の増発で、将来の増税社会保障費削減のリスクがかえって高まり、高齢者の予備的貯蓄が減らない可能性もある。また、日本の場合、年金をはじめとする社会保障制度はすべて、事実上の賦課方式で運営されているため、現在の社会保障費拡大は、若者世代のより大きな負担増を意味する。このため、高齢者の予備的貯蓄が仮に減少したとしても、若者世代の貯蓄率は確実に増加し、一定程度の相殺が起こるであろう。

実際、若者世代の意識としては、この財政状況と今後の人口動向を考えれば、自分たちが親世代と同様に公的年金を受給できると考える人が少なくなるのも致し方のないところでしょう。年金保険料を滞納するいっぽうで個人保険に加入するという、普通に考えるとかなり損な行動をとる人もいるそうです。まあこれは極端な少数例でしょうが、それにしても公的年金への信頼度はことほどさように低いということでしょう。
これは年金が賦課方式になっていることにも問題はあり、そういう意味でも橘木先生が主張されるように課税ベースの広い消費税を財源とすることが好ましいといえましょう。景気対策という意味でも、むしろ増税して財政を改善して非ケインズ効果に期待したほうがいいのかもしれません。まあこのあたり私にはよくわかりませんが…。

 仮に、民主党政権が高齢者の消費を拡大させることに成功したとしても、投資などGDPを構成する他の需要項目がクラウドアウト(締め出し)される可能性がある。2009年度末現在、日本政府の債務残高は883兆円と、GDPの2倍近くになっているが、政府が発行する国債の大半は国内で消化され、低金利が保たれている。しかし、高齢者の貯蓄取り崩しにより家計金融資産が減少すると、国債市場の需給が悪化して長期金利が上昇し、設備投資、住宅投資、耐久消費財消費を減少させることになるだろう。また、金利上昇は国債の利払い費も増大させ、政府の財政状況をさらに悪化させ、政府支出の自由度を失わせる。

まあ、高齢者の消費が拡大することでどれほど国債が売られるのかという問題はあるわけで、債務残高が膨大すぎて大して効かないという可能性もあります(あまり喜ばしい話ではありませんが)。いっぽう、高齢者予備的貯蓄が35兆〜40兆円あるとのことですが、その相当割合は国債で運用されていると思われますので、これがゼロになるとか半減するとかいったことになると無視できない影響があるかもしれません。いずれにしても、このあたりは私にはわかりません。

 最後に、「社会保障費拡大で消費性向の高い低所得者に対する所得再分配を増やせば、消費が増えて景気が回復する」という主張はどうであろうか。もちろん、日本のように再分配機能が極端に低い社会では、低所得者への税還付や手当支給は、公平性の観点から重要な政策である。しかし、景気対策としての効果は疑問といわざるを得ない。
 グラフは、総務省「家計調査年報」による所得階級別の平均消費性向(可処分所得のうち消費に回る割合)の推移である。09年度は全体として家計の消費性向が上昇する中で、下から20%の低所得者に当たる年収352万円以下の層だけは消費性向が低下し、その上の所得階層との逆転現象が生じている。このように、消費性向は所得階級による差が小さくなっており、所得再分配によって得られる消費拡大効果もわずかにとどまる。
 このように考えてゆくと、民主党政権の「福祉経済理論」は妥当性が低く、借金による社会保障費再膨張を正当化するものではない。民主党政権は、本来の財政制約に立ち戻って、負担を引き上げるか、社会保障費の大盤振る舞いをやめるか、どちらかの責任ある選択をすべきである。

うーん、「09年度は全体として家計の消費性向が上昇する中で、下から20%の低所得者に当たる年収352万円以下の層だけは消費性向が低下し、その上の所得階層との逆転現象が生じている」というのも不勉強にして初めて知りました。にわかには信じられない話で、サンプルが少なく妙な結果が出がちな家計調査の問題ということは考えられないのでしょうか?まあ、いずれにしても低所得層の消費性向が比較的高いことは間違いないので、たしかにあまり多くを期待することはできませんが、効果は一応認めてもいいのではないでしょうか。鈴木先生も指摘しておられるように、所得再分配の強化は公平性の観点から重要なわけですから。まあ、鈴木先生としては、やるなら公平性のためにやるとはっきり言え、消費拡大→景気拡大などというまやかしの説明をするな、と言いたいのでしょうが…。
ということで、私は全体としては鈴木先生の言われる「民主党政権の「福祉経済理論」は妥当性が低く、借金による社会保障費再膨張を正当化するものではない」との所論に賛同せざるを得ないように思います。実際、一昨日取り上げた橘木先生の論考も社会保障財源としての消費税増税を訴えていますので、現状の民主党の借金→社会保障支出増を容認しているわけではありません。ただ、社会保障支出増の経済への効果についてはかなり評価が異なっているようではありますが…。
なお、「本来の財政制約に立ち戻って、負担を引き上げるか、社会保障費の大盤振る舞いをやめるか、どちらかの責任ある選択をすべき」というのもかなりキツい表現で、反発を招きやすいのではないかと思いますし、実際社会保障給付が増えていると言っても自然増も大きく、政策的に増える分は全体からみればそれほど大きくはありません。民主党にしてみれば「本来の財政制約」だの「大盤振る舞い」だの言われても、そのほとんどは自民党が作ったもので自分たちのせいではない、と言いたくもなるでしょう。
とはいえ、それを承知の上で政権をよこせと言っていたはずですし、全政権の不首尾については責任はとれないよということでは、それこそ為政者として責任ある姿とは申せないでしょう。さらに、民主党の政治家には自民党新党さきがけなどで政権与党に参加していた人もかなりいますし、有力者にその割合が高いのも事実です。とりわけ、鳩山首相小沢幹事長は自身だけではなく父親までも自民党の有力な立場で財政政策や社会保障政策にコミットしてきたわけですし、至急「本来の財政制約に立ち戻って、負担を引き上げるか、社会保障費の大盤振る舞いをやめるか、どちらかの責任ある選択を」行うよう検討を進めることを期待したいと思います。もちろん、現実の選択は「どちらか」というよりは双方の組み合わせになるでしょうが…。

*1:ノーベル賞経済学者アマーティア・センらの「福祉経済学」とは異なるもののようですので。というか、民主党の言っているのが「福祉経済学」だ、と言ったらセンが怒るよね。