「社会的弱者に雇用の場を」中島隆信慶応義塾大学教授

5月10日には、「社会的弱者」と雇用に関する中島隆信先生の論考が掲載されています。見出しには「「比較優位」の仕事探せ 社会全体にメリット」とあります。現在、労働政策審議会障害者雇用分科会において国連障害者権利条約の批准に向けた議論が進んでいますが、その上でも重要な考え方を含んでいて興味深い内容だと思います。
為念あらかじめ申し上げておきますが、私はいわゆる「社会的弱者」の救済は必要だと思いますし、就労を通じて可能な限りの自立をはかることが重要だと考えています。そのためには一定の公的な支援も必要ですし、企業も応分の努力をはらうべきだと思います。このエントリでは中島先生の議論のプロセスに批判的な感想も書くと思いますが、上記の結論について否定しようという意図は一切ないことをおことわりしておきたいと思います*1

 長引くデフレ経済がもたらす失業率の悪化と厳しい就職事情は、仕事に就いている人と就けない人の格差を拡大させつつある。…もちろん、生活難の人たちへの所得保障は必要だ。しかし、より重要なのはそもそも社会に弱者をつくらないことである。そのために経済学的発想を持つことの必要性を説くことが本稿の目的である。

 私たちはさまざまな失敗や挫折を経験する。このようなとき、落後者の烙印押されて社会から排除されると、そこからはい上がるのは難しくなる。…受験競争の落後者となった子どもは、高等教育を受ける機会を失い、将来生産的な仕事に就くのが難しくなるだろう。就職活動に失敗して既卒者となった若者は、主だった企業から書類選考の段階で排除される。…キャリア形成の中途で失職した社会人にとって再就職はきわめて困難である。…
 罪を犯した人たちは世間の非難を浴び、その家族の多くは離散を余儀なくされる。罪を償って社会に戻っても帰る家はなく、収入の道も限られる。再犯が続けば刑務所以外に居場所がなくなるだろう。
 障害を持つ人たちも、厳しい状況に置かれている。身内に障害者がいると話したときに感じる周囲の「お気の毒」目線はそれを如実に物語っている。
 こうした人たちがどこで何をしているか、ほとんどの国民は知らないだろう。報道に接しても、「かわいそうに」とか「自分がそうでなくてよかった」といった感情的な反応に終始し、社会がそうした扱いをしていることの意味を論理的に理解しようする人は少ないはずだ。
 しかし、落後者の烙印を押して社会から排除すればそれで問題が片付いたわけではない。なぜなら排除された人たちには行政が生活保障をしなければならないからである。
…施設に収容されている人は行政の目が届いているだけ恵まれているのかもしれない。…施設にも家庭にも居場所がなければ、ホームレスになるか人生そのものからの落後、すなわち自殺という手段を選ばざるを得なくなるのだろうか。年間3万人を超える自殺者数は毎年社会から受け入れ拒否された人の数といっていい。…
 なぜこのようなことが起きているか、理由は明白である。それは社会的弱者といわれる人たちの多くが経済の仕組みに取り込まれていないからである。これらの人たちの「できないこと」や「欠けている能力」にばかり目を向け、働く場所から排除してきたことが社会での居場所をなくしているのである。
(平成22年5月10日付日本経済新聞「経済教室」から、以下同じ)
http://www.nikkei.com/paper/article/g=96959996889DE2E5E2E3E4E7E4E2E2EAE2E7E0E2E3E29997EAE2E2E2;b=20100510

もちろん「社会的弱者といわれる人たちの多くが経済の仕組みに取り込まれていない」ということに対する問題意識は共有するのですが、それでもなお、企業の人事管理に携わる立場からすると「これらの人たちの「できないこと」や「欠けている能力」にばかり目を向け、働く場所から排除してきた」と断罪されると悲しい気持ちになることは率直に表明したいと思います。
たとえば障害者雇用についていえば、たしかに法定雇用率が達成されていないことは非常に残念なことですし、達成に向けて一段の努力が必要なことは言うまでもありません。障害者雇用に無理解な程度の低い使用者が存在することも否定するつもりはありません。とはいえ、雇用率はゼロではなく、昨年6月現在で1.63%までには達しています。しかも、これだけ激しい景気の後退に見舞われたにもかかわらず、2007年の1.55%から2008年は1.59%、そして昨年は1.63%と伸ばしているのです。この間派遣切りをやっていたくせに、未達なのに威張るなという人もいるかもしれません。しかし、障害者の受け入れはそれなりに企業の負担もありますし、なにより職場の同僚、とりわけ監督者の理解と苦心には大きなものがあります*2。障害者の就労に尽力している人たちが「経済教室」で「「できないこと」や「欠けている能力」にばかり目を向け、働く場所から排除してきた」と書かれているのを読んだとしたら、たぶんあまり明るい気持ちになれないと思うのですが…。
まあ、「口の利き方」レベルの問題には違いありませんし、うるさいこと言うなと思われるでしょうが、しかしそれで味方を失うこともあるわけで。本当に問題視すべきなのは、障害者雇用に無理解な事業主や、「排除された人たちには行政が生活保障をしなければならない」そのコストは喜んで負担するから排除しておいてくれ、という主張をする一部の論者のような人たちであって、社会や企業を一律に問題視することで現に障害者雇用の現場で努力している人たちまで敵に回すのは得策でないように思うのですがどんなもんでしょうか。
なお、細かい話ですが「年間3万人を超える自殺者数は毎年社会から受け入れ拒否された人の数といっていい」という記述はやや妥当性を欠くように思われます。もちろん自殺問題は深刻であり、その対策は急務ですが、内閣府の「平成21年度自殺対策白書」によれば自殺の原因・動機は「平成20年の状況をみると(第1−22表)、原因・動機特定者は2万3,490人(72.8%)、原因・動機不特定者は8,759人(27.2%)となっており、原因・動機特定者の原因・動機は、「健康問題」1万5,153人(64.5%)が最も多く、次いで「経済・生活問題」7,404人(31.5%)、「家庭問題」3,912人(16.7%)、「勤務問題」2,412人(10.3%)、「男女問題」1,115人(4.7%)、「学校問題」387人(1.6%)の順となっており、これまでと変動はない。」とされており、仮に「健康問題」の中に中島先生の言われるような原因でうつ病に罹患して自殺した、という例が含まれているとしても、「自殺者数=社会から受け入れ拒否された人の数」と「いっていい」かどうかは疑問でしょう。

 能力の劣る人は働く場所から排除されても当たり前と考える人がいるなら、それはとんでもない誤りである。経済学上最大の発見ともいわれる「比較優位」の考え方は、弱者を社会から排除することの非合理性を見事に説明する。
 あらゆる面で優れた能力を持つ超人がいたとしても、すべての仕事をその人に任せることは合理的ではない。比較優位の原則によれば、超人にせよ弱者にせよ、すべての人がその持っている能力のうちの相対的に優れた部分を最大限に生かして社会参加をし、あとからその成果を配分した方がすべての人の利益を増やせるのである。
 弱者を社会に取り込むことのメリットはそれだけではない。施設で非労働力化している人たちが一般就労できれば施設の維持管理に使われる行政コストを大幅に削減できる。家庭に閉じこもっている子どもが経済的に自立できれば、親は子どもから解放され、社会参加できるだろう。
 罪を犯した人たちを社会が受け入れることには強い抵抗があろう。しかし、…ホームレスになるくらいなら衣食住完備の刑務所の方がむしろ居心地がいいと考えても不思議はない。そうした人たちの取り調べ、裁判、そして施設収容にかかる一切の費用はすべてわれわれの税金によって賄われているのである。
 いったん社会から排除されてしまった人たちを経済に取り込むにはどうすればよいのだろうか。それは仕事を与え、収入の道を開くことである。
 重要なヒントが企業による障害者雇用の現場に隠されている。利益をあげることが必要な企業にとって、障害者雇用と経営の両立は難しい課題である。両立のためには、障害者を弱者としてみるのではなく、その相対的に優れている点を探し出し、仕事に生かすという発想が必要となる。たとえば、強いこだわりを持つ自閉症の人たちの場合であれば、作業内容を明確化し、パターン化することができれば、比較優位どころか一般の人たちよりも優れた力を発揮するといわれている。
 ここでポイントとなるのは、社内の各所に分散している仕事から、こうした特殊な能力を持つ人たち向けの作業を切り出して集め、仕事を創出することができるかどうかである。そのためには、社内メールの分類や重要書類の裁断といった作業を一カ所に集めるなど、機能別に仕事を組み直す必要がある。
 こうした組み直しにはコストがかかるが、その効果は障害者雇用だけにとどまらない。さまざまな仕事を同時にこなすよう要求されている社員の場合、そのなかの一部の余計な仕事のために全体の生産性が下がっていることもあるだろう。そうした仕事を切り出して集約し、得意な人に任せることができれば会社全体の効率性は高まるだろう。
 人が唯一の資源であり、それが将来的に減少していく日本にとって、どんな人も社会から排除せず、できるかぎり経済に取り込み、社会全体の利益を増やすという発想が必要である。それは効率的な社会の構築と行政のスリム化にもつながる最も効果的な「事業仕分け」といえる。

私は経済学は初学者なので間違いがあるかもしれませんが、比較優位の考え方はいわば定理のようなものなので、貿易に限らず就労の場面でも該当し、人事管理においても非常に大切な考え方になります。わかりやすい説明が、たとえばここhttp://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20090128/184222/にあります。私も、こうした経済学の考え方を、たとえばここで紹介されているような障害者雇用の拡大などに生かしていくことが重要だろうと思います。
とはいえ、障害者雇用の議論において、中島先生の述べられているような考え方は、たぶん多数派だろうとは思うのですが、しかしコンセンサスではありません。「社内の各所に分散している仕事から、こうした特殊な能力を持つ人たち向けの作業を切り出して集め、仕事を創出する」、つまり障害者が比較優位を持つ「社内メールの分類や重要書類の裁断といった作業を一カ所に集める」ことに対しては、ノーマライゼーションの立場から根強い異論があるからです。こうした取り組みの典型がいわゆる「特例子会社」ですが、これに対しては「障害者を特定の職場・仕事に固定・隔離するものであり、ノーマライゼーションの理念に反する」という批判があります。実際、特例子会社制度が導入された際にも「そのような批判はあるものの、現実に障害者雇用に相当の費用を要することを考慮すれば、特例子会社を認めることで障害者雇用の増加が期待でき、障害者にとっても利益となる」といった議論があったと記憶しています。
国連障害者権利条約を批准するには合理的配慮を含む障害者差別禁止を法制化する必要がありますが、差別禁止を強調すると、こうした特例子会社も否定されかねません*3。とはいえ、特例子会社が障害者雇用を増やすことについてはこの論考にあるような経済学的な裏付けもあるわけですので、障害者の福祉のことを考えるならば、今のわが国で特例子会社を否定するのは少なくとも時期尚早でしょう*4。法改正の議論はぜひともこうした観点を重視してほしいと思います。
一方で、「作業内容を明確化し、パターン化することができ」て、自閉症の人たちが支障なく働ける仕事がどれだけあるのか、「社内メールの分類や重要書類の裁断といった作業」を集めたところでいかほどかという問題はあります。業種にもよりそうですが、まあ、類似の仕事をかき集めれば全体の1.8%くらいはなんとかなるでしょう、ということでしょうか。もっとも、障害者雇用の有無にかかわらず、こうした最適分業による生産性向上は常に行われていなければならないわけで、そうして分業されたその仕事を障害者がやるのか、一般の人がやるのかはまた別の問題です。もし生産性に違いがないのであれば(あるいは中島先生があげられた例のように「一般の人たちよりも優れた力を発揮する」のであれば)、障害者の雇用を妨げるものはないわけですが、実際には仕事の上では生産性に違いはなくても、多くの場合たとえばバリアフリーなどの設備的な対応や、同僚、とりわけ監督者による配慮といったコストは発生するのが現実でしょう。もちろん、障害者雇用によるメリットもあるわけなので、そのメリットがコストを上回ればいいわけで、そのように仕事を設計する努力は当然必要ですし、そうしたコストを抑制する上でも特例子会社は有効です。
なにを申し上げたいかというと、障害者雇用(に限らず、いわゆる「弱者」の雇用もですが)を比較優位の考え方を使って議論するときには、本文中にも「あとからその成果を配分」とあるように、再分配の観点も必要だろうということです。障害者雇用についていえば、当然ながら企業もそうしたコストを応分に負担する(まさに合理的配慮)わけですが、いっぽうで政府による公的な支援という形での再分配もまた重要だろう、ということです。当然ながら企業での就労だけが社会参加だというわけではなく、企業が合理的配慮を行っても雇用が難しい障害者もいるでしょう。こうした人たちについては、たとえば福祉工場や授産施設を運営する社会福祉法人への助成などが行われていますが、これも比較優位の考え方で「相対的に優れた部分を最大限に生かして社会参加」し「すべての人の利益を増や」すために不可欠な「あとからその成果を配分」にあたる*5わけで、こうした再分配の重要性についても言及がほしかったところです。
ただ問題は、再分配について議論するときに「能力の劣る人は働く場所から排除されても当たり前と考える人」たちがこの説明で納得するかどうかです。再分配(や分業)のあり方によって生産性が変動する場合は、比較優位が成り立たないこともあるのかもしれません。大幅な絶対優位にある人が「そのような再分配が行われると、私の意欲が削がれて生産性が減退する。それによって失われるものは、能力の劣る人が就労することで得られるものより大きい」したがって「生活保障のコストは喜んで負担するから、それ以上のコストはかけずに排除しておいてくれ」と主張することは十分ありえます。表立ってはなかなか言いにくい話ではありますが、内心そう思っている人がいないとはいえません。それが事実そうなのか、全体の利益のために自分の利益を失うことがいやだという本音にくっつけた屁理屈なのかを判定するのはかなり難しそうです。
となると、いわゆる社会的弱者に対する就労促進支援を「比較優位」だけで説明することには困難もあり、やはり社会福祉的な観点も援用していく必要がありそうです。

*1:こんな言わずもがなのことをくどくどと書くのは気はさすのですが、議論のプロセスを批判されたり、事実関係の単純な誤りを指摘されただけで結論まで全否定されたと思い込んで逆上する人もいるということを経験的に承知しておりますので。

*2:もちろん個人差はありますし、一方で障害者を受け入れることのメリットもあります。

*3:本当に差別禁止を徹底するなら障害者雇用率制度も否定されてしまいますが、これは国連障害者権利条約でも「積極的差別是正措置、奨励措置その他の措置を含めることができる」とされていて、加盟国の判断に委ねられています。

*4:実際には特例子会社の障害者雇用全体におけるプレゼンスはそれほど大きくないので、影響は小さいとの見方もありますが、いっぽうで特例子会社を設置している企業は障害者雇用に積極的な先進企業であることも多いことも事実です。

*5:もちろん、授産施設や福祉工場は障害者が就労を通じて自立に近づいていくためにも必要だと私は思いますが、これに対しては「無理してコストをかけて就労させるよりは、同じコストで最低生計費くらいの現金給付をしたほうが本人も楽でいいんじゃないの」という意見もあるのかもしれません。