大竹文雄『競争と公平感−市場経済の本当のメリット』

「キャリアデザインマガジン」第93号に掲載した書評を転載します。

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

 好著との呼び声高い中公文庫『経済学的思考のセンス』の続編という印象の本。前著では身近な問題にまつわる多くの経済学の研究成果をひきながら「インセンティブ」の観点から社会を考える「経済学的思考」を紹介していたが、今回は書名のとおり「競争と公平感」にフォーカスして、経済学のみならず生物学や生理学の研究成果も動員して「市場経済のメリット」を訴えている。
 I「競争嫌いの日本人」では、競争をめぐるテーマが取り上げられる。まず国際的にみて日本人は市場に対しても政府に対しても信頼度が低いことが紹介される。不況が市場競争や再分配に対する人々の意識に与える影響や競争に対する意識の男女差、さらには男の非正規や事業仕分けの経済学的な問題点、統計データ公表の重要性など幅広い議論が展開され、最後は市場経済のメリットが学校教育の場で適切に教えられていないことに問題があると指摘している。
 IIは「公平だと感じるのはどんな時ですか?」と題され、公平感に関する論点が中心となっている。出生時体重と成人後の健康・所得との関係からはじまり、個人の持つ公平感や平等主義といった価値観の形成過程、性格傾向と経済活動の関係、宗教や文化、公共心の経済への影響などが論じられる。格差に対する意識の日米比較から、日本人は努力を重視し、天性の才能や学歴、運などで格差がつくのを嫌うため、そのような理由で格差がついたと感じると(本当の理由はどうあれ)「格差感」を強く感じるとの指摘は興味深い。さらには相対的貧困率の上昇とグローバル化の関係、人々の貨幣選好と不況の関係などが論じられ、最後は高齢化によって政治的な決定が短期指向に陥りやすいという問題点が指摘されている。
 III「働きやすさを考える」は、競争と公平感が仕事にどう影響しているのかの検討にあてられている。最初は非正規社員問題が取り上げられ、長期的な波及メカニズムまで考慮した施策の必要性が主張される。祝日の増加が労働に与えた影響、長時間労働と労働時間規制の経済学的根拠、最低賃金引き上げの問題点、外国人労働者受け入れが日本人に与える効果、さらには消費税の表示方法が消費行動に与える影響なども論じられる。
 この本を一貫している著者の考え方は、市場での競争はたしかにつらいこともあり、勝者と敗者には格差も発生するが、それ以上に全体が豊かになるメリットが大きく、格差に対しては競争の成果である豊かさを政府が勝者から敗者に再分配することで対応すべきだ、というものだろう。市場がうまく働かず、特定の人たちが一方的に勝ったり負けたりするような状態に陥ったとしても、市場をやめてしまうのではなく、市場がうまく働くような、多くの人に勝者となるチャンス(と敗者となる可能性)が生まれるようなゲームのルール、「絶妙なルール」を作るべきなのだ。
 これはまことに理にかなった考え方で、評者も賛同するところなのだが、しかしこれに同意するのはあるいは市場競争にある程度の適性を有する人に限られるのかもしれない。本書の中にも、従来サービス残業することで同僚と同等の職務をこなしていた一部の国立大学職員が、法人化後はそれができなったために同僚との格差が拡大し、メンタルヘルスを悪化させていう事例が紹介されている。実際、競争というものはまことにつらい。ある程度以上豊かになってしまうと、追加的な豊かさを得るために耐えなければならない競争のつらさも大きくなっていくだろう。そうなると、つらさの割には、豊かさが増している実感は得られにくい。しかも、競争に負けることの影響は経済的なものだけにとどまらない。それやこれやで、もうこれ以上豊かにならなくていい、多少は貧しくなってもいいから、もう競争のつらさから逃れたい、と考える人が出てくるのも自然なのかもしれない。鳩山首相が就任直後に示したグローバル化市場経済に対する異様な嫌悪感は世界を驚かせたが、しかしそれが時代の空気をうまくとらえていたことも事実なのだろう。
 とはいえ、本書にもあるように、グローバル化を止めるべきではないし、実際止めることもできないだろう。であれば、わが国だけが競争から「降りる」ことは、先を進む国との格差が拡大し、後を追いかけてくる国にもいずれ追い抜かれることを意味する。しょせん、こんにちの世界で市場競争から逃れられると考えることに無理があるのではないか。
 それでは、どうすれば多くの人が市場競争に挑もうとの気持ちを強くできるのだろうか。もちろん、著者が主張するように、学校教育でそのメリットを教えるということも大事だろう。加えて、やはり著者が主張するように、より市場が機能しやすいようなルールを開発することも必要に違いない。なるべく多くの人に勝者となる機会があり、勝敗が固定しないようにするためには、単一の市場ではないほうがいいのかもしれない。スポーツで例えれば、格闘技で体重を測ってから組み合う、といったものだ。これが日本人の国民性に合うかどうかは微妙だし、法制度をそのようなものにすることはもとより困難だろうが、企業の人事管理などではありうる考え方かもしれない。労使で大いに知恵を出すことが望まれる。
 このように評すると、あるいはこの本に対して「固い」「小難しい」という印象を与えてしまったかもしれない。しかし、実はこの本は社会や経済に多少なりとも関心を持つ人であれば、読み物としても掛け値なしに面白い。もともと雑誌などのエッセイとして書かれたものがもとになっている部分が多く、文章も読みやすいし、経済学の解説もわかりやすいものが心がけられている。値段以上に、十分に楽しめる本である。広くおすすめしたい。