大竹文雄『競争社会の歩き方』

「キャリアデザインマガジン」134号に掲載の書評を転載します(実は少しフライングです)。

『競争社会の歩き方−自分の「強み」を見つけるには』 大竹文雄著 中公新書 2017.8.25

 2017年のノーベル経済学賞は、行動経済学の草分けであり権威である米シカゴ大のリチャード・セイラ―教授に決定した。一般的な経済学は合理的な個人を想定するが、現実の個人は感情に左右されるなどして多分に合理的でない。そうした不合理な個人を念頭に、経済学に心理学を導入して意思決定を分析するのが行動経済学だ。その成果は、すでに社会改良に有効に活用されている。たとえばわが国でも、より安価なジェネリック医薬品(後発品)の利用を増やして医療費を抑制するために、処方箋の書式を「後発品への変更には医師の許可が必要」から「医師が先発品を指定しない限り後発品」に変更して成果を上げたという例が紹介されている。
 この本は、そうした行動経済学の知見をふんだんに生かして、日本社会のさまざまな側面を読み解きつつ、「競争社会の歩き方」を説いていく。書名からはあるいは競争社会の「勝ち方」を指南するハウツー本に見えるかもしれないが、そうではない。賢明な「歩き方」を考えようと言う本である。
 もちろん、競争は往々にして厳しいし、つらいことも多い。とりわけ敗者は過酷な現実に直面することもある。そのために社会的セーフティーネットがあるとしても、できれば競争はしたくないという人は多いだろう。しかし、私たちが消費者として享受しているさまざまな恩恵は、実は競争を通じて生み出されている。競争に参加せずしてその果実のみを得ることは普通できないし、規制などで競争から保護されている人については、そのポジションを獲得するまでに激しい競争を経ることが多いだろう。
 決して楽ではない「競争社会」をより賢明に歩いていくためには、できるだけ合理的に意思決定することが大切になるだろう。しかし繰り返しになるが私たちは必ずしも合理的ではない。たとえば、同じ案件について意思決定する場合でも、怒っている人はよりリスク選好的に、おびえている人はリスク回避的になるという。逆に言えば、ある意思決定をするときに自分の感情を確認し、怒っているのであれば無用な冒険をしないように、おびえているのであれば無意味に消極的にならないようにと考えることで、より賢明な意思決定ができるだろう。この本では、私たちの意思決定がどのような傾向を持ち、何に左右されているのかを多くの事例をひいて説得的に解説している。
 また、最初に紹介したように、競争社会で人々がより賢明に振る舞うような政策誘導にも行動経済学は貢献している。ジェネリック医薬品の例は、私たちは比較的重要でない意思決定には手間をかけようとしないという傾向を応用したものだ。先発品でも後発品でも効能が変わらないとなると、医師はわざわざ手間をかけてどちらかを指定しようとはせず、処方箋の書式の初期設定(デフォルト)のままにする傾向がある。であれば、デフォルトを先発薬から後発薬に変更することで後発薬の使用を増やせるという寸法だ。このような、人々がより望ましい行動をとるようにしむけるちょっとした働きかけを、ノーベル賞受賞が決まったセイラ―は「ナッジ(nudge)」と呼んだ。この本では、こうしたナッジの事例もふんだんに紹介されている。
 ここまで読んで、あるいは「なんとなく難しい本」との印象を持たれたかもしれない。しかし、そういう印象を与えたとすれば評者の力不足であり、むしろこの本の最大の特色は非常にわかりやすく、読み物としても面白いという点にある。新聞広告などで話題になった「チケット転売問題」から説き起こし、ゆるキャラや落語・小説、プロスポーツ、テレビドラマなど、身近で親しみやすい、読者が関心を持ちやすい題材をうまく生かしながら、楽しく行動経済学の知見とその応用が理解できるように書かれているし、最後は格差や技術革新、高齢化といった重い課題に到達している。テレビ出演者やエッセイストとしても活躍し人気を博している著者の面目躍如というところだろう。
 この本は、同じく中公新書から出版された著者の『経済学的思考のセンス』(2005)、『競争と公平感』(2010)の続刊でもあるという。過去2冊は本書ほど行動経済学色が強くはないが、しかしいずれも楽しく読んで経済学のさまざまな知見や考え方を理解できる好著である。本書を読んで関心を持たれた方には、ぜひこれらにも触れていただくことをお勧めしたい。

書評はこちらhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20060612
競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

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書評はこちらhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20100426#p1