システム管理者の復讐

たまには人事管理ネタで、日経ビジネスのウェブサイト「日経ビジネスオンライン」のITのカテゴリに面白い記事が掲載されていました。お題は「システム管理者は“復讐”する」と剣呑です。執筆は「日経コンピュータ」編集部長の谷島宣之氏。

「ああ。またプロの犯罪が――」
 1月29日金曜日、帰宅して日本経済新聞の夕刊を眺めた時、こうつぶやきたくなった。

 夕刊に載っていたのは、『昔の勤務先に不正接続容疑 警視庁、男を逮捕』という見出しの小さな記事である。読んでみると、警視庁ハイテク犯罪対策総合センターが不正アクセス禁止法違反や電子計算機損壊等業務妨害の疑いで39歳の会社員を逮捕した、とある。
 容疑者は以前勤務していた企業のサーバー(コンピューター)に、自宅のパソコンから不正にアクセス(侵入)し、サーバーの中にあったファイル(データを入れておくところ)を2万件あまり勝手に削除し、古巣の業務を妨害したらしい。

…筆者の関心は…もっぱら容疑者の動機にあった。日経夕刊によると容疑者は「担当業務への評価が低く恨みがあった。どれだけ大変な仕事か分からせようと思い、怒りに任せてやった」と供述したそうだ。
 容疑者はもともと、この企業でシステム管理者を務めていたが、昨年9月末に退職、その直後の10月から、不正アクセスを繰り返していたという。
 9月末の退職に至るまで、その企業の中で実際にどのような経緯があったのかは不明だが、仮に理不尽な扱いをされたのだとしても、「恨み」から「怒りに任せ」、情報システムという自分の専門領域で違法行為をしてはプロフェッショナルとは呼べない。
 そもそも、管理者が退職してすぐにコンピューターの調子がおかしくなったら、ハイテク犯罪対策総合センターでなくても元管理者を疑うだろう。
 とはいえ、「大変な仕事」なのに「評価が低く」、なんとかして「分からせようと」という下りを読むと、冒頭に書いた通りで、「ああ…」とつぶやきたくなってしまう。残念なことだが、システム管理者の仕事に対する世間の理解はまだまだと言えるからだ。
 システム管理の仕事をしているプロの方々の名誉のために書くと、理解があろうがなかろうが、評価が高かろうが低かろうが、多くのシステム管理者は日々、その任務を全うしている。全うしていなかったら、情報システムのトラブルが毎日報道される事態に陥っているはずだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20100209/212709/

このあと、記事では事例をひきながらシステム管理者の仕事がいかに大変かを紹介しています。続けて、


 経営陣がシステム刷新の提案を却下するときの常套句は、「問題なく動いているからいいじゃないか」である。問題がないわけではない。ここまで書いたようなシステム管理者の地道な作業の積み重ねによって、かろうじて動いているといったほうが正しい。
 投資はしてくれなくても、経営陣がシステム管理の仕事を理解しているならまだしも、実態はどうか。経営陣は、営業担当者や工場の現場に対して「お疲れ様」と思っているだろうが、システム管理者にも同様に感謝しているのだろうか。いささか心許ない。
 自分の仕事の内容を周りが理解してくれない。これは辛い。だからといって、当たり散らしたところで何も変わらないし、不正に手を染めれば逮捕され、自分自身の人生を狂わせてしまう。
 残念なことに、「怒りに任せて」古巣の情報システムを攻撃した、といった事件は時折報道される。
 派遣の形でシステムの仕事をしていたが、契約を切られて立腹、不正アクセスをしてファイルを削除し逮捕、といった今回とほぼ同じ内容の事件もあれば、職場に不満を持ち、自分以外の人間がシステムを修整できないようにパスワード(コンピューターを操作する際に入力する番号や単語)を変更した技術者が逮捕された、といった例もある。後者は米国における事件である。

…米国のシステム管理者300人に調査したところ、88%が「明日解雇されるとしたら,会社の機密情報を持ち出す」と回答したという。

 米国の場合、当日いきなり解雇を告げ、身の回りのものだけ段ボール箱に入れて直ちに出て行け、というやり方をとることがある。システム管理者を解雇しようとしたら、当日言い渡すであろうし、退出するまでシステムに指一本触れさせないであろう。その管理者が使っていたパスワードは直ちに変更するはずだ。
 つまり、解雇されたシステム管理者が機密情報を持ち出そうとしても、簡単にはできない。管理者ならそんなことは分かっている。したがって、「明日解雇されるとしたら,会社の機密情報を持ち出す」と回答した米国の管理者達の本音は、「大変な仕事」なのに「評価が低く」、不満がないわけではない、にもかかわらず突然、首を切られたら、できるものなら反撃したい、ということではなかろうか。
…システム管理者が何らかの理由で退職する際、企業はシステムの中に入るために使うパスワードを変更し、辞めたシステム管理者が古巣のコンピューターにアクセスできないようにしなければならない…。
 冒頭で紹介した事例で、被害を受けた企業は、パスワードを変更していなかったと思われる。これまで報道された「退職したシステム管理者の復讐劇」においても、企業がパスワードの変更を怠っていた例が見うけられる。
 ただ、パスワード管理の徹底は、経営の常識というより、ITの常識である。経営者の皆様に向けて、本稿で一番言いたいことを最後に書く。
 システム管理者の仕事の重要性を理解し、適切な評価を下すことが大事であり、それは広義の不正アクセス対策になる。年に1度でよいから、自社のコンピューターセンターあるいはシステム管理現場を視察し、システム管理者や担当者達と対話することを強くお勧めしたい。蛇足だが、対話といっても、ITの専門的な話をする必要はない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20100209/212709/

私はシステム管理の人たちと同じオフィスで仕事をしているのですが、見ているとたしかに大変な仕事だなあと思います。システムは正常に動いて当たり前、ふだんは意識されない割にはトラブルの時だけは悪者にされ、しかもすぐに直って当たり前という仕事ですから、ストレスもいかばかりかと想像されます。
もっとも、それは他の仕事であっても事情は似たようなものかもしれません。もちろん仕事によっては大きな受注を取ったり、新技術やヒット商品を生み出したりすることで賞賛を集めることもあるでしょうが、そうした注目を集める機会もなく、日々地道に「何事もなくて当然」の目立たない仕事に取り組んでいる人もまた多いはずです。まあ、システム管理というのは比較的新しい仕事なので、そうした中でも「世間の理解はまだまだ」「経営陣は、営業担当者や工場の現場に対して「お疲れ様」と思っているだろうが、システム管理者にも同様に感謝しているのだろうか。いささか心許ない」というのが実態なのかもしれません。
そうした中でも、「理解があろうがなかろうが、評価が高かろうが低かろうが、多くのシステム管理者は日々、その任務を全うしている」というのは、システム管理者の高い使命感とプロ意識のなせるわざだ、というのもまことにそのとおりなのでありましょう。実際、この道のプロとして生きていこうとするのであれば、仮にいかにそれが相手方に非のある「復讐」であるとしても、こうした行為は即座に業界からの追放を意味する自殺行為でしょう。
また、システム管理者のどれほどが正社員として長期雇用システムの中で働いているのかはわかりませんが、そうであれば定年までの仕事は一応約束され、それなりにスキルを向上させる経験を積む機会が提供され、スキルが上がれば賃金もそれなりに上がっていくわけですから、これも「日々、その任務を全うしている」背景に存在するかもしれません。実際、他にも多数存在する「何事もなくて当然の目立たない仕事」に従事している人たちが、やはりシステム管理者と同様「理解があろうがなかろうが、評価が高かろうが低かろうが、日々、その任務を全うしている」ことは、こうした長期雇用システムに支えられていると考えてよさそうです。
いっぽう、「理解」や「評価」という側面から考えれば、人間だれしも自分を過大評価しがちな傾向はあるわけで、その裏返しとして「自分(の仕事)は他人(の仕事)に較べて理解、評価されていない…」と感じがちだというのも、情において無理からぬものがあるのではないでしょうか。人事評価や賃金水準に対する不満をなくすことは現実には無理でしょう。
そこで、それを減らすための取り組みとして「コミュニケーション」が重要になってくるわけで、谷島氏の「年に1度でよいから、自社のコンピューターセンターあるいはシステム管理現場を視察し、システム管理者や担当者達と対話することを強くお勧めしたい」という提言は現場の実感のこもったまことに適切なものと思われます。見てもらって、話を聞いてもらって、仕事の大変さを多少なりともわかってもらった上でのこの評価であれば、それは不満はもちろんあるけれど、100%納得はできないけれど、まあ仕方がないか…ということで渋々ながらも受け入れる。それで「これからもこの会社で頑張るか…」という気持ちになってもらう。人間が人間を評価する以上、100%の正確さなど求めるべくもなく、当然ながらさまざまな間違いや誤差がありますし、運・不運もつきものです。であれば、より正しい評価のための努力も重要でしょうが、それと同様に誤差や運・不運があることを前提としたコミュニケーションも重要でしょう。
もうひとつ付け加えるなら、異なる職種の横断的評価のように比較が難しく、誤差や運・不運が避けがたい場合には、あまり大きな差をつけないということが肝要ではないかと思われます。根拠が不確かで比較が難しいものを無理に比較して差をつけようとすると、それに関するコミュニケーションも同様に困難なものになってしまうことは明らかだと思われるからです。