大久保幸夫『日本の雇用』

「キャリアデザインマガジン」第91号に掲載した書評を転載します。

日本の雇用--ほんとうは何が問題なのか (講談社現代新書)

日本の雇用--ほんとうは何が問題なのか (講談社現代新書)


 リーマン・ショック後の急速な景況悪化は、あらためて雇用問題をクローズアップした。「派遣切り」が社会問題となり、2009年末には日比谷公園で「派遣村」が開催された。雇用失業情勢が2010年の総選挙による政権交代の一因であったことも間違いあるまい。
 もっとも、その際の新政権与党の政権公約における労働政策は、製造派遣や登録型派遣の原則禁止や最低賃金の引き上げなど、総じて問題視されている事項に対して個別に、直接的・短絡的な規制を行うものが目立ち、それによる労働市場や人事労務管理への影響が考慮されていないかのように見える。世間での議論も同様で、いまだに諸説が乱立してかなりの混乱がみられるのが実情だろう。これは、わが国の労働市場や労使関係、人事労務管理の現状が歴史的にどのように形成され、現状どのようになっていて、相互にどのように結びついており、さらにはそれが社会保障や福祉、教育などの分野とどのように連関しているのか…といった、雇用とそれを取り巻くしくみの全体像に対する理解が欠如していることに大きな原因があるものと思われる。
 もちろん、こうした全体像に対する的確な理解のもとに雇用政策を論じた業績もある。その代表例としては濱口桂一郎(2010)『新しい労働社会−雇用システムの再構築へ』岩波新書や、八代尚宏(2010)『労働市場改革の経済学−正社員保護主義の終わり』東洋経済新報社があげられよう。この2冊の拠って立つ理念は前者が社民主義、後者が自由主義であって、全く異なるにもかかわらず、現状に対する理解についてはほとんど同様の認識を示しており、具体的な政策においてもかなりの共通点を有していることは、一見驚くべきことのように見えるが、両者がともにわが国の雇用システムに対する深い理解に立っていることを考えれば、むしろ必然といえる。
 この本もまた、今日的な雇用問題の背景にある全体像を示した上で、具体的な政策を提言している。「はじめに」では、日本社会を覆う雇用不安を強く意識して議論を進めるとの姿勢が示される。第1章はおもに歴史的経緯の解説にあてられ、まずはこの10年間で起こったことが整理され、続いてさらに長期的な歴史が概観され、そのうえで現状を正規−常用非正規−臨時非正規という構造で整理している。第2章は、主として前回の雇用調整期に採用され、あまり効果を生まなかった雇用対策をレビューし、その問題点を指摘している。中でも、批判的に論じられることの多い新卒一括採用について積極的に再評価した部分は興味深い。
 第3章からは提言に入るが、この章ではやはり前回の雇用調整期における経験、特に失敗経験をふまえて、今回の不況における企業と働く人の留意点を解説している。不況期のアイドルを教育研修にあてる、中間管理職の役割の再評価、正社員就職の重要性など、現に企業が取り組んでいる内容も多く、実務実感によく一致している。第4章は政府による主な雇用対策、雇用保険、教育訓練、雇用調整助成金のそれぞれについて、失業者を孤立させない、労働需要のあるサービス業を重点に教育訓練を行う、非正規に過度に雇調金を拡大しないなどの提言がなされる。
 第5章は、将来的な課題が取り上げられる。格差問題、ミドル・シニアのキャリア、派遣について、多様性を重視する観点からの提案が行われている。「おわりに」では、政府によるセーフティネットが不十分な中、貯蓄や夫婦共稼ぎ、人脈、労働法などの知識、そして職業能力といった「指摘セーフティネット」構築の重要性を訴えている。
 この本の最大の特色は、雇用システムおよび周辺システムの全体像に対する的確な理解のもとに書かれていることに加えて、人材ビジネスの最前線に立つリクルート、そのワークス研究所を中心とした多くの調査やその分析、そしてなにより多くの具体的事例を踏まえて、豊富な現場感覚をもって論じられていることがあげられるだろう。上で紹介した2冊が、その理念的背景のゆえに、現実的を意識しながらも具体論においては実務実感に適合しない部分が多々みられたのに対し、この本においては、もちろん具体論の細部については申し上げたいことも多々あるが、しかしかなり多くの点では実務実感とも整合的である。もちろん、人材ビジネスゆえのバイアスを感じる部分もあるが多くはなく、よく自制されていているとの印象を受ける。
 コンパクトな本であり、論点やポイントを絞り込んで書かれているため、論じきれていない部分も残されていることに不満を感じる向きもあろう。とはいえ、それゆえに多くのビジネスパーソンには読みやすく、一読すれば一通りの基本的知識をおおむね正しく理解することができるになっているのではないかと思う。雇用問題は働く人たちのほとんどに大きな関係を持つ。多くの人に読まれてほしい好著である。