鹿児島地域経済研究所「Southern Wind 南の風」2010年新春号

鹿児島銀行シンクタンク、鹿児島地域経済研究所の季刊「Southern Wind 南の風」2010年新春号(http://www.ker.co.jp/に目次があります。通巻1号となっていますので、創刊号なのかもしれません)に、小池和男先生、脇坂明先生と私の鼎談が掲載されています。内容は、浜銀総研の機関誌「ベストパートナー」の昨年11月号(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20091020)に掲載されたものがほぼ転載されたものです。
せっかくなので(何が?)私の発言から一部転載します。

脇坂 ―では、次の「神話」として年功賃金について、賃金の決め方の問題に入りたいと思います。これは、年功賃金が欧米社会とは異質な日本社会の長い慣行から生じたのだという神話があります。…小池先生は年功賃金というのは年齢と功というメリットと両方入っているから非常にあいまいなので、あまり使わないほうがいいと言われて、言葉の整理をされています。社内資格給とか、職務給とかの共通点と正しい理解ですね。
 いわゆる年功賃金の変化の常識としては、社員の能力による職能給に変わってきたと言われていて、その職能給が限界に来て、成果主義に変わってきたと。こういう流れで説明されるのですが、小池先生は年功賃金という言葉も、職能給という言葉も使われずに、社内資格給と範囲給という言葉で説明されて、時代の流れは日本も海外も、そちらに移ってきていることを論じられています。ところが、いま成果主義に多くの企業が変えようとしているのは、世界の相場に逆行しているのではないか、ということを主張されているわけです。荻野さんは、この論点に関していかがですか。
荻野 ―賃金の問題の典型的な一つの例として、製造現場の交代制勤務で、片方のシフトでは、ある仕事をベテランの班長クラスがやっていた。もう片方のシフトでは同じ工程に入社四年目くらいの若手がついている。やっている仕事は同じです。本当に純粋に職務給だったら、この二人は同じ賃金でなければおかしい。また成果主義でやるのだったら、この二人は同じ稼働率で同じ出来高を出したら、同じ賃金でなければおかしい。しかし、現実にはそうなっていない。なぜかというと、当然、班長クラスの人であれば、前工程から流れてきた不良が検出できるし、ものによってはその場で直すこともできる。前後の工程でトラブルが起こったときに、行って手伝うことができる。あるいは簡単な設備の停止なら自分で起動して復元することができる。反対側の若い人はそれは一切できない。設備が止まったら監督者を呼んで直してもらわなくてはいけない。生産性の差も非常に大きいわけで、そういったところまで含めて処遇しようというのが、職能給の考え方なのだろうと思うわけです。
 少なくとも、日本でやってきたような熟練の形成であるとか、社内での人材育成、長期的な人材形成という意味では、職能給制度というのはすぐれたやり方だったんですね。あるとき、その人の能力に十分見合った仕事につけられなくても、それはそうなった会社の問題だから、賃金は同じにしましょう。その代わり、ちょっと難しい仕事を会社の都合でやってもらうことがあっても、給料は同じだよと。しかし、その仕事を一年やりきったら、次は昇格するかもしれないね、というのが職能給資格制度の運用だと思いますので、非常に日本の長期雇用とは親和性の高い方法だったのではないかと思います。
 社内資格給という整理は、私は大変わかりやすいと思います。というのは一時期、成果主義がブームで、そのあと職務給というのを経団連などが盛んに言ったわけですが、その中身を見ていると、ほとんどが職務等級によって賃金を決めると。職能資格となにが違うかというと、役職との結びつきが職務等級のほうが少し強いかなというくらいで、ほとんど違いはない。結局、ある程度、横割りにした資格の区分で賃金を払う。しかも、資格が同じでも中に幅のあるレンジレートになっているという意味でも似ています。それが一応、いままでの日本の人事管理に一番適切なものとしてできあがってきたものだろう、と思っております。

いま読み返してみると問題提起と微妙に噛み合ってないですね。