日経新聞の珍社説

ということで、後刻書いておりますが、この社説、お題は「労働力の流動化促す賃金制度を探ろう」となっています。全文はこちらにあります。
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20100126ASDK2600426012010.html
前振りの部分は現状の説明が中心なのでとりあえずスルーするとして、このあたりからおかしくなってきます。

 厚生労働省の調べでは、主要企業の定昇を含めた春の賃上げ率は08年の1.99%から、09年は1.83%に低下したが、その後も企業の支払い余力は高まっていない。一般的に定昇が可能な経営環境ではなくなっているだけに、経営側が定昇に慎重なのはある程度やむを得まい。

きのうご紹介した「連合見解」で連合が「定期昇給は、基本的には内転原資であり、直接人件費のアップにはつながらない」とあらためて指摘しているように、支払い余力がゼロであっても定昇は実施できます。というか、定昇を実施したうえにさらにベアができるのなら、それが支払い余力なわけで、これは賃金実務のごく初歩的な常識です。過去には日経新聞にもこれを解説した記事が掲載されていたりもしましたので、わかっていないわけではないのでしょうが、人事異動などで人が替わるとまたわからなくなってしまうのでしょうか。それにしても社説でこれはちょっと…。

 労使に議論してほしいのは、定昇のような年功序列の仕組みを賃金制度の軸にしたままで、企業や日本経済が成長できるのかという点だ。
 長く勤めるほど収入が増える定昇制度は、社員に会社への帰属意識を植えつけて定着させるためだった。

ななめに読めばさらっと通り過ぎてしまうような短い文章ですが、実はかなりとんでもないデタラメです。なにがデタラメかを説明するには「定昇」について全般的な解説をしなければなりませんが、詳細・精密にやりはじめると時間がいくらあっても足りませんので、ごく大雑把かつくだけた書き方でざっくり書いていきます(細かく見れば間違いもありましょうがご容赦を)。
もともと定期昇給制度というのは、だいたい基本的に1年に1回賃金を改定し、原則として昇給することを経営が約束する、といったものでした。闘争的な労働運動が激しかった時期に、旧日経連のほうが「毎年昇給させることを約束するから、毎年毎年賃上げ交渉でお互いに膨大な労力をかけるのはやめましょうよ」ということで持ちかけた話だったのです。当然ながら労組はこれに反発し、大幅賃上げを求める春闘オイルショックまで継続しました。この間各企業で賃金制度の整備が進み、かつてはまさに年功序列の年齢別・勤続別の賃金テーブルによって制度として定期昇給が自動的に行われる企業も多かったわけです。
こうした賃金制度は、とりわけ経済・企業が成長している時期には非常にうまく機能しました。人手不足基調、特に熟練工が払底している中で、企業は内部育成で人材を養成せざるを得ず、勤続を通じてスキルが上昇するのにともなって賃金も上昇していく制度は労働者が技能を伸ばすことに対する良好なインセンティブとなったわけです。これは長期雇用と相俟って日本企業の生産性向上に大きく寄与したわけですが、歴史的にみればこれは後付けの成果になるわけです。日経のいう「帰属意識」の向上は、こうしたしくみの中で企業特殊的熟練が蓄積され、転職するとそれが剥落して賃金が低下するといった構造の中で、打算の産物としてさらに後付けで現出したものにすぎません。もちろん、それもまた大いに有意義なものだったわけですが。
さて、その後現在に至るまで、高度成長から安定成長、低成長への移行、技術革新や国際化の進展といったさまざまな環境変化に応じて賃金制度も職能給への移行が進み、近年の成果主義騒ぎなどもあってますます多様化、複雑化しているわけですが、趨勢としてはかつてのような年齢や勤続に直接インデックスした賃金テーブルといったものは絶滅はしていないまでも影を潜め、能力や役割、仕事、貢献度などを考慮した社内資格給が主流となりました。
現在多くの企業で運用されている賃金制度では、一般的に個人の昇給は社内資格の昇格か人事考課の評価向上によって行われ、年齢や勤続で自動的には行われないことになっています。こうした企業では「定昇制度はない」と言われるのが普通でしょう。
とはいえ、経験を重ねて能力が向上し、役割が高まれば、資格昇格や人事考課もそれに応じて行われ、全体としてみれば傾向的に年齢が高まれば賃金も上昇するということになるでしょう。個人でみれば「今年は昇給しない人」「昇給が頭打ち・ストップしてしまった人」(業界用語で「引き込み線に入る」などと言います)といった人も一定数いて、個人差は拡大しているわけですが、平均した賃金カーブは緩やかな右肩上がりになっているわけです。近年の成果主義騒ぎを通じて個人差はさらに拡大したことが観察されているようですが、いっぽうで平均的には右肩上がりの賃金カーブが維持されていることも確認されているようです。
これはたしかにまぎらわしいのですが、春季労使交渉で議論される「定昇」というのは、この賃金カーブの平均変化率のことであって、「定昇制度」とは異なる概念です(区別のために「定昇相当分」とか「賃金制度維持分」などとも言われています)。定昇制度がなくなってしまった企業でも、賃金カーブが右肩上がりである限りは定昇は存在します。民間企業の多くでは、個人差が拡大する中で年齢や入社年次と職制上の地位や賃金などが「逆転」することも当たり前に見られるようになっており、年功序列はほぼ崩壊しているわけですが、そういう企業でも「定昇」はなかば数学的な概念として存在しているわけです。
ということで日経の社説に戻りますと、「労使に議論してほしいのは、定昇のような年功序列の仕組みを賃金制度の軸にしたままで、企業や日本経済が成長できるのかという点だ。」というのは、春季労使交渉の文脈で「定昇=年功序列」と断じている点で根本的に間違っています。また、「企業や日本経済が成長できるのか」とわざわざ「企業」を持ち出していますが、少なくとも企業については能力や役割、仕事、貢献度に応じた賃金を支払った結果としての定昇であれば、それが成長の妨げになるとは考えにくいものがあります。また、定昇制度にしても、成長している企業であればうまく機能する可能性は高いかもしれません。「長く勤めるほど収入が増える定昇制度は、社員に会社への帰属意識を植えつけて定着させるためだった。」のほうは、こうした歴史的経緯を考えると、かなりいいかげんな記述と申し上げざるを得ないでしょう。

 しかし現在は、医療、介護、教育や環境関連などの成長分野へ労働力を移していく必要がある。人材がひとつの企業に囲い込まれないようにするために、賃金制度は年功序列型から職種や役割、成果に応じた仕組みに見直すべきだ。

そもそも、他産業・企業に人材を供給するために賃金制度を変更しろというのが筋の悪い話で、少なくとも余計なお世話であるわけですが、それはそれとして。
成長産業や新興企業において人材、とりわけ熟練者やマネージャーが不足するのは一般的な傾向で、それに対して成熟産業にはそうした人材が豊富だろうから、そこを移動させれば経済全体では効率が上がる…という発想はわからないではありません。というか、これまでも各企業においては新商品や成長市場に重点的に人材を配置するといった形でそれを行ってきましたし、産業・企業間をまたがる移動についても、人材ビジネス各社が参入しています。
その際、マッチングを成立させるには労働条件で折れ合うことは不可欠なわけですが、成長産業サイドがあまり高い賃金を提示できないから、成熟産業サイドがそれにあわせて賃金を下げろというのはさすがに暴論でしょう。
実際、ここで成長産業としてあげられている介護分野では、たしかに人材不足が深刻だといわれていますが、その最大の原因の一つが業務内容に較べて賃金水準が低いことにあるというのはほぼコンセンサスでしょう。そもそも雇用失業情勢が悪化して失業者が増加しているにもかかわらず人手不足なのですから、仮に他産業の賃金水準を介護分野以下に下げた(そんなことができたとして)ところで介護分野への労働移動が目に見えて増えるとは考えられません。
また、「職種や役割、成果に応じた仕組みに見直す」というわけですが、現実にはそれこそ先般の成果主義騒ぎなどを通じてすでにその方向での見直しはかなり進んでいて、その結果が現在の賃金水準になっているわけです。かつては働きよりかなり多い賃金を受け取っているように見える人が一定数いたかもしれませんが、現時点では民間企業ではそういう人はかなり減っているでしょう(また、かつてそう見られていた人の多くは管理職待遇で組合員ではないので、労使交渉の対象とはそもそも縁遠いものがあります)。というか、職種賃金にすれば成長産業に労働力が移動するというのがかなり妙な理屈で、実際問題として医療とか介護とか教育といった分野では、すでに相当程度職種賃金になっているわけです。たとえば看護師などはなぜか流動性が高く転職が多いのですが、それはその地域での看護師の賃金水準が(もちろん病院により違いはあるにしても)ある程度職種賃金の相場として形成されていることと深く関連しているでしょう(どちらが原因でどちらが結果かは両方ありそうですが)。成熟産業としてなにが想定されているか不明ですが、たとえば縫製工とか高炉保全工とかについて職種賃金でいくらと相場を決めたところで、縫製業や鉄鋼業から医療や介護に労働力が移動するかといえばそんなことはありえないわけで。
たしかに、ファーストフードのように低賃金労働力をうまく活用して成長したようにみえる業界もありますが、しかし成長産業が成長することで良好な雇用が増加することが望ましいことは間違いないでしょう。低賃金労働者が供給されないから成長産業が成長できない、したがって既存産業の賃金水準を下げろ…というのはやはり無理な議論ではないでしょうか。
成長産業であれば、中長期的にみれば高い労働条件を実現できる可能性は高いでしょうし、業務内容やポストなども魅力的なものが提示できるでしょうから、必ずしも賃金が下がれば労働力の移動は起こらないということはないでしょう。逆に、成長産業が本当に成長産業で、魅力ある条件を提示できるのであれば、労働力はおのずと移動することでしょう。

 労働力人口は足元の約6600万人から、20年に約500万人減るとみられている。女性、高齢者や外国人の活用が欠かせなくなる。中途入社者が不利になるような年功序列型の賃金制度の見直しは、企業自身の将来への備えにもなる。
 労使は賃金制度の話し合いを深め、経済の活性化につなげてほしい。

最後に突然話題が変わりますが、中途入社者を新卒の新入社員と同様に処遇するという企業も少ないでしょう。だいたいは職歴などを参考に適切な年次・社内資格に位置づけ、あとは新卒入社組と同様に処遇しているのではないかと思います。また、高齢者についても、定年退職後再雇用で従前の労働条件を継続する企業はかなり少数のはずで、だいたいは労働条件を見直しているでしょうから、これも今さら言われるまでもない話だろうと思います。外国人に関しては、日本的な新卒入社・内部昇進と雇用慣行が異なる国での就労経験が多い人もいるでしょうから、現状は少数であれば個別の契約で対応しているにしても、今後増加が見込めるならそういう人にはそういう人向けのコースを作るといった対応は必要かもしれません。とはいえ、なにも全員をそのコースにしなければならないというわけではなく、従来型の長期雇用の制度も並存させればいいだけの話です。女性についても、出産・育児などのためにいったん退職した人(女性に限りませんが)の再雇用制度などは、まだまだ工夫の余地はあるかもしれません。このあたりはたしかに労使で協議していくべき部分だろうと思います。
いずれにしても、自らの労働条件を引き下げて成長産業向け低賃金労働者の供給を増やすべきだといった議論に労働組合の乗り目があるわけもなく、日経の論説委員の脳内にある妄想を述べたに過ぎない、日経新聞の恥をさらした社説と申せましょう。いやこれはさすがに言い過ぎましたか、失礼。