ことば遊び

きのうに続いて「嫌われ成果主義の逆襲」をとりあげます。おお、これはまた何日か行けるぞ(笑)
さて今日ご紹介するのは、明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授の野田稔先生による「成果主義を悪者にした5つの誤解」というインタビュー記事の(前編)です。野田先生は「成果主義は言われなき批判を受けている。そう考えています。「成果主義ってかわいそうだな」とつくづく思いますね。」ということですが、最初に感想を一言で書きますと「ことばを弄ぶ、ってのはこういうことなんだなぁ」。

 成果主義は、主義という言葉がついていることからも分かるように、1つのイデオロギーです。…このイデオロギーの信条は、人をその人の上げた成果によって評価する、つまり、成果に応じて誰を重用するかを決めるという点に尽きます。
 この点においては、年功序列主義も、実は成果主義の1つと言えます。長年積み重ねてきた功績の累計に応じて、誰を重用するかを決めるからです。
 年齢だけで決める年齢主義とは異なる。長期累積型の成果主義と呼べるものなのです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090511/194203/、以下同じ)

たしかに「誰を重用するか」というのは人事管理において極めて重要で、処遇としても重要なポイントです。人によっては金銭インセンティブ以上に重要かもしれません。ここに着目しているのはさすがだと思います。
ただ、「年功序列主義も、実は成果主義の1つと言えます。長年積み重ねてきた功績の累計に応じて、誰を重用するかを決めるからです。」ってのは、いくらなんでも詭弁でしょう。たとえば、こんなふうに「年功序列主義も、実は能力主義の1つと言えます。長年積み重ねてきた能力の累計に応じて、誰を重用するかを決めるからです。」と言い換えたって全然おかしくない、というか、こちらのほうがかつての日本の年功序列の実態に近いでしょう。たしかに、能力主義というときに、その「能力」をどう判断するかといえば、学歴や年齢は参考にするとしても、やはり仕事ぶり、プロセスと結果でしょう。そういう意味では能力主義成果主義とも言えますが、しかし野田先生が「言われなき批判を受けている、かわいそうだ」とお感じになっている世間の成果主義は、能力主義に対抗する概念とされているはずです。
さて野田先生は、成果主義が批判される「その原因は、成果主義に対して多くの人が暗黙の了解のように前提を置いたり、成果主義を狭く考えたりしていることにあると考えています。」と述べ、「成果主義を悪者にした5つの「思い込み」」を列挙しておられます。

1 成果とは結果である
2 成果は数値で表す必要がある
3 評価は客観的であるべき
4 評価には必ず差をつける
5 成果は処遇に直結させる

 まず、成果は結果だという思い込みがある。本来、成果主義の概念の中に結果という言葉はない。それに、結果に結びついていなくても、「あの人は明らかに成果を上げている」と言えることがあります。
 例えば、プロセスが良かったとか、ほかの人に協力したとか。こうしたことは当然、成果として認められるべきものです。

それは、成果とはそういうものだ、と定義すればそうなる、ということに過ぎません。実務家にとっては、これは事実を無視した詭弁とのほかいいようがありません。現実に「批判を受けている」成果主義をみれば、成果とは結果だ、プロセスは評価しない、という考え方で設計されていることが多いでしょう。それは成果主義ではない、というのならそれもご自由ですが…。

 成果は数値によって測定できるものでなければならないという思い込みもあります。これも違います。成果は数字で表せなくても構いません。

へー、そんな思い込みがあるんですか。成果主義を標榜する企業でも、A〜Eの5段階評価とかの大まかな評価を行っている企業もある、というかそういう企業のほうが多いと思うんですが…。

 もっとひどい思い込みもあります。「評価は必ず差をつけないといけない」というものです。
 これは、全く的外れです。成果が同じなら差をつけない。あるいは成果の差が、重用するかどうかを判断するのに影響が出ないほど小さければ、その差は無視するのが成果主義の原則です。

これは、成果主義に限らず、職能給でも職務給でも同じことですね。だから、ほとんどの企業は人事考課を5段階くらいの少数のランキングにしているわけです。現実の運用はまあ上から10%、20%、40%、30%、例外的少数、といった感じでしょうか。ランクによる差の付け方もそれほど大きくはありません。で、一時期流行した成果主義の一部には、差を大きくすることを売り物にしていた例もあったというのが現実でしょう。

 最後の思い込みは、成果に応じた評価を処遇に必ず結びつけなくてはならないという考えです。ですが、必ず報酬やポジションといった処遇に成果を直結させなければならないというわけではありません。

うーん、しかしこれだけ重用、重用と言っておきながら、報酬はともかくポジションにも結び付けないとすると、いったいなんのために評価するんでしょうか?もちろん、評価の重要な(おそらく最重要な)用途は人材育成ですが、成果評価は人材育成にはあまり適合しないわけで…。
ということで、野田先生はこう述べられます。

 でも、こうした思い込みは成果主義の本質ではありません。ですから、「成果主義が嫌いだ」と言うのは正確ではない。正しくは、「思い込みによって行われている成果主義の運用が嫌いだ」ということなのです。

野田先生の所論は結局のところ、「成果主義」が批判を受けているさまざまな部分について、「それは成果主義の本質ではない」と否定しているだけにすぎません。批判を受ける部分をすべて排除すれば、批判されようのない「完璧な」ものになることは当たり前で、それこそことば遊び、詭弁にすぎません。実際、野田先生は「成果主義を狭く考えたりしている」と指摘されていますが、こうした議論の代償として野田先生のいわゆる「成果」は「狭く考え」どころか、プロセスや結果のほか、能力や職務なども包含した、ものすごく広い概念になってしまっています。通常の人事管理で評価基準とするものがすべて「成果」に含まれているわけですから、年齢や性別や経営者の好き嫌いといった一応は仕事とは無関係なもので判断するのでないかぎり、すべては成果主義になります。これはある意味無敵です。
これに続く、「成果主義バブル崩壊後の長期経営不振期に賃金抑制の手段として利用された」というのは、労働研究者の間でもおおむねコンセンサスとなりつつあるのではないかと思われ、おそらくかなりの程度当たっているのだろうと思います。ただ、「社員の平均点を設定して、平均点に満たない社員たちの給与を引き下げることにした」といった表現はいささかお粗末で、本当に人事管理について理解したうえで議論しておられるのだろうか、という疑問がますます強まるわけではありますが…。