小池和男『日本産業社会の「神話」』

「キャリアデザインマガジン」86号に掲載した書評を転載します。
それにしても、この「売らんかな」の副題、なんとかならないものでしょうか。たしかに小池先生は日本人の自己評価を、自分の良さに気づかない、他国と比較して卑下する、といった趣旨で「自虐的」ということはありますが、それは右翼の論者のいう「自虐史観」とはまったく無関係なのですが…

日本産業社会の「神話」―経済自虐史観をただす

日本産業社会の「神話」―経済自虐史観をただす


 面白い本だ。研究書や教科書ではないし、解説書かといえばそれも違う。一種の読み物、それも歴史を中心とした読み物という感がある。著者は率直に「証拠がやや足りないにもかかわらず、なおいいたい議論を集めている」と述べている。そしてその「いいたい議論」とは、我が国には、自国について古くから語り伝えられながら根拠があやしい「神話」が多数存在し、これをもとに企業や政府が誤った対応をとることで損害をまねきかねない、ということのようだ。
 たとえば第1章では「集団主義」がとりあげられる。なるほど、日本の職場での働き方をみるとたしかに「集団主義的」であろう。日本の職場には明確なジョブ・ディスクリプションがないことが多く、各人の業務分担もあいまいだ。同僚が忙しい人を手伝ったり、欠勤の穴埋めをしたりすることも普通に行われている。しかし、だから日本の賃金は格差が小さくて平等だ、というのは「神話」だ。良質な調査で国際比較すれば、実際には日本の職能資格制度と米国の職務等級制度とはかなり似ている(だから、米国は職務給で降級も日常茶飯事、というのも「神話」なのだ)。査定での差のつけ方は日本のほうがむしろ大きい。これは、日本企業が集団主義的にみえる働き方で効率を向上させていくにあたっては、それを支える個人のすぐれた働きに報酬を用意する必要があるからだと著者は指摘する。ところが、わが国では「日本企業の賃金格差は小さい」という「神話」のもとに、すでに大きい格差をさらに拡大しようとしている。それはかえって集団主義的にみえる働き方による生産性向上を阻害し、日本にとって損失なのではないか。これが著者の「いいたい議論」である。
 同様の議論が、「日本人は仕事好き、会社好き」(第2章)、「年功賃金は日本の社会文化の産物」(第3章)、「日本は長時間労働」(第4章)、「企業別組合は日本だけ」(第5章)、「産業の発展は政府のお陰」(第6章)といった「神話」についても展開される。中でも、江戸期から戦前期までの賃金制度をみた第3章や、戦前日本紡績業の発展をみた第6章は、やや断片的なきらいはあるものの、歴史読み物としてもまことに面白い(小説のように読みやすくはないが)。
 そして、これらにおける著者の「いいたい議論」とは、「日本人がよく働くのは合理的な動機付けによる」「年功賃金は戦後合理的に作られてきたもの」「ホワイトカラーは欧米でも長時間労働で国際比較は難しい」「職場単位の労使関係は欧米でも重要な役割を果たしている」「日本企業は政府に頼らず技術革新を推進した」のだから、「神話」をうのみにして安易に変更してはならない、ということではないだろうか。たしかに、著者が自ら認めているように、この本がとりあげる調査にはかなり古いものも散見されるし、著者自身の経験に依存した部分もいくつかある。歴史的史料をもとにした議論がどこまで現代に適用できるかといった問題もあるだろう。それゆえか、著者も結論を断言するような書き方は避けているようにみえる。
 とはいえ、産業社会、とりわけ雇用、労働の分野において、誤った事実認識のもとに不適切な施策をとることが大きな損害をもたらしかねないこと、そしてわが国では多くの局面でそのような危機が存在することに対する警告としては、この本は十分にその目的を達しているといえるのではないか。著者は終章で「自他を直接比較した研究を探し出し重視する」「資料の質を心得ると、おもわぬ新発見がある」と述べる。長年にわたって、現場でのていねいな調査、資料収集の積み上げを通じて「通説」に挑んできた老碩学の、なんとも重みのある言葉である。