「POSSE」第4号続きの続き

引っ張りますがもう一回(笑)、「POSSE」第4号から、hamachan先生が「なんともはや」と表された座談会『「ニート論壇」って言うな!〜「セカイ系」化する論壇か、論客の「精神の貧困」か〜』の感想を書きたいと思います。本文を読まないとなんのことかわからないかもしれませんが、コピペできないのでご容赦ください。登場人物は「フリーターズフリー」の杉田俊介さん、「ロスジェネ」の増山麗奈さんに、座談会タイトルの本歌?である『ニートって言うな!』の後藤和智さんです。実は『ニートって言うな!』も本歌取り?で、元ネタは玄田有史先生の『働く過剰』のオビに書かれた「即戦力って言うな!」というコピーらしいのですが。
それはそれとしてこの座談会、「なんともはや」というよりは、私はそれこそ「面白おかしく」読みました。基本的には3人がそれぞれ自分の言いたいことを言い合っているという風情ですが、杉田さんと増山さんは一応互いにappriciateしあっているのに対し、後藤さんは少し浮いているというか、存在感が薄い。最後のほうはかなりのバトルになって、後藤さんが二人にやりこめられて開き直っています。
まあ、これは30代なかばの杉田さん、増山さんと、まだ20代なかばの後藤さんのキャリアの違いというものなのでしょう。杉田さんと増山さんにはすでに相当のリアルな活動の実績がある。言論活動だけでなく、実際に身体を動かしての活動もかなり実践してきているわけです。もはや彼らはそうした人生を歩んでいくほかの道はなかなか見出しにくいし、それでいくしかないとの覚悟もできているでしょう。
それに較べると、後藤さんはまだ実践が乏しく、政策提言、経済学や労働法の世界で世の中をなんとかしようとしているわけです。おそらく、後藤さんにしてみれば、増山さんが「私たちがやっていることはブッダに似ている」なんて言うのはまったくのナンセンスにしか聞こえないでしょう。そんな飛んだことを言っていないで、現実社会の地に足のついた政策提言をやっていかなければ世の中変わらないぞと。
ところが、杉田さんや増山さんにしてみれば、それはとっくに乗り越えちゃった過程で、おそらくいくら政策提言をしてみてもなんの影響力もない、なんらかの実践、影響力を持った上で発言していかないと経済学や労働法の世界は動かないということを、たぶん身をもって知っている。彼らにとってみれば、政策を勉強して提言をまとめることも必要だけれど、しかしそれはすでに誰かが何度もやっていることであって、自分たちがやってきたような、それを実現に結びつけるパワーになるような実践活動のほうが大事だと思っているのでしょう。実際、例の「派遣村」はそうしたパワーが必ずしも非現実的ではないということも示したわけですし、杉田さん・増山さんはたぶんそれに関与してもいたでしょう。これは後藤さんもだったかな。だから杉田さんと増山さんは後藤さんに「おまえも政策提言とか言って他人に要求するばかりじゃなく、自分で身体を動かしてパワーをつかむような実践をなにかやれよ」と求めるんだけど、後藤さんとしてみればそんな河原で小石を積み上げるようなことは無意味に見えるし、やる気にもならない。
おそらく、杉田さんと増山さんからみた後藤さんの未来予想図は、いかにもありそうなパターンとして政治家になって既成政党にとりこまれてしまうとか、あるいは政府の審議会に呼ばれたりして、徐々に御用評論家化して官僚組織に取り込まれてしまう、そして結局は「政策提言」もほんのお慰みくらいにしか実現しない、そういったものなのではないでしょうか。もちろん、それはそれで非常に立派な生き方だと思いますが。
さらに言えば、編集された座談会の記事を読んだだけの印象なのでおそらくは見当はずれでしょうが、後藤さんはまだ大企業の正社員として就職してビジネスマンになる、というキャリアを現実的な選択肢として考えているのではないか、という感じを持ちました。というか、他の二人が、この人はまだそういう可能性を考えているのではないか、だからその道を捨てて実践に取り組むことができないのではないか、という印象を受けているのではないか、という感じを持ちました。実際、これだけの能力と情熱を仕事に注ぎ込めるのであれば採用したい、という企業はかなりあるのではないでしょうか。
そういう意味で、私は杉田さんの最後の発言は、行為者としての率直な感想の表明であるような印象を受けました。後藤さんも、自分たちのようにこれから十年、実践してみなさいよと。そうすれば共有できる何かがあることがわかるでしょうと。
ちなみに、このお三方のブログを見てみますと、杉田さんは別の座談会とセットで「どちらも楽しかった」と一言だけ。増山さんは座談会の敷衍で自説の展開を少し。後藤さんは湯浅誠の運動は評価すると書いています。最後の「本当に必要なのはニセ科学批判のようなものだと思いますけどね。」という一行(座談会でもニセ科学批判のことを言っていますが)は、今のところは「俗流若者論批判」が後藤さんにとっての実践だということなのでしょう。


(7月15日追記)思いがけない反応もあったのでもう少し敷衍させていただきます。まず私自身がお三方の活動をどう見ているのかというと、やはり一介のサラリーマンのいたってプラグマティックな視点からすれば彼らの活動は三人とも「世界が違う」というのは否定しようがありません。だからこれら活動を否定したり軽視したりするというわけでは決してなく、正当に評価したいとは思いますが、しかしやはり私が外野の野次馬であることも間違いなく、したがってこの座談会もそういう立場からまさしく「面白おかしく」読んだわけです。だから「貴様が言ってるのは無責任な冷やかしに過ぎない」ってのはまさにそのとおりでありまして、まあそれは私が自分の個人的な日記に個人的な感想を書いたということでお許しいただけないかと。
そういうことですから、私としては精神の貧困がヘチマとかオルタナティブが滑った転んだという議論はよくわかりませんし、わからないからどうでもいいっていう反応をせざるを得ないわけで、このあたりは後藤さんと少し近いものがあります。「ブッダに似ている」ってのは、私だって何だこれは、ですよ。もっとも、私の場合は議論より実行を尊ぶ実務家に共通の傾向がそうさせている部分がたぶんかなりあって、その上で「わからないから無意味だ」とは思わないでおこう、というレベルで止まっているのに対して、後藤さんはわかった上で否定されているのでしょうから、その点かなりのレベルの差はありそうですが。
一応そういう前提があって、その上で上のエントリの議論のポイントは二つあります。ひとつはかなり下世話な、しかし世俗的にはたぶんかなり重要なコミュニケーションの技術論でして、なにかといえば、うまく経済的なインセンティブを与えれば人々の行動をある方向に変えることはたぶんできるだろう(現実にどうするかは、これはこれで難しいわけではありますが)。しかし、他人の考え方を自分と同じものに変えようとすると(さらにそれを別の人にも伝えてもらおうと思えばなおさら)、これはカネと口を出すだけではなかなか難しくて、かなりの程度(俗っぽい言い方でかなり気がさすので、上のエントリでは使わなかったのですが)「身体を張って」いるところを見せることが必要になってくることが多い、という経験知はかなり有力なのだろうと。
もうひとつのポイントは、杉田さんや増山さんは身体を張ってきたことで相当程度深く問題の「当事者」になっている、ということです。ここで玄田さんを担ぎ出すのもなんだかなあという感じですが、最近気に入ってあちこちで引用している玄田さんの述懐をもう一度紹介しますと、「「根本的」という言葉が好きになれない。『○○に根本的な問題がある。小手先の策ではダメだ』と指摘すると何だか格好いい。ただ、そういう人は、きまって問題の解決に奔走している当事者ではない。根本的な問題があることくらい、わかっている。一朝一夕には解決しないから、根本なのだ。本当の関係者は、一歩ずつ解決策の積み重ねを、地道に模索している。」

杉田さんにしても増山さんにしても、社会制度などに「根本的な問題があることくらい、わかっている」。でも、政策提言したところで目の前のこの人はどうすればいいのか、の答は出てこない、そこに問題意識があるのではないかと思ったわけです。
ですから、hamachan先生のような政策のインサイダーからすれば「杉田氏と増山氏には、全然言葉が通じない感覚。20代半ばの後藤氏の言ってることがすっと入ってくる」ということになるのはまことにもっともだろうと思います。というか、正直なところ私もそんな感じを受けなくもないのですが、その一方で私のようなアウトサイダーからすれば、後藤さんはもちろん、杉田さんや増山さんの活動も、役割こそ違うけれど大切なものであり、それぞれに異なる意義があるようにも思えるわけです。もちろん、では意見が合うかといえばそれはまったく別問題で、三者ともにその考え方は私とは大いに異なっているわけですが。
ということで「もう少し敷衍」のはでしたが、思わず注釈が本文より長いくらいになってしまったとは、これはまことになんともはや。