賃上げ必要論もある

 さて新ネタをやります(笑)が、きのうは池田信夫先生の賃下げ論をご紹介しましたので、バランス上(?)次は賃上げ論をみてみたいと思います。連合総研が毎月機関誌「DIO」を送ってくれるのですが(ありがとうございます)、その2月1日号に、首都大学東京の脇田成教授による「我先に出口に殺到するな 賃上げで景気底割れ防止を」という寄稿が掲載されています。まあ、こうした状況下では賃上げ論も労組系のメディアくらいにしか見当たらないのが現実というところでしょうか。不勉強にして脇田氏の論文などは読んだ記憶がないのですが、氏のホームページをみると著書や論文なども多いようです。ちなみに脱線しますが、別のワキタシゲルさんの書いたものは時折目にするわけでして、下世話な面白がり方で恐縮ながら、連合と全労連のそれぞれにワキタシゲルさんというイデオローグがいるというのは不思議な暗合(?)と申せましょう。
さて脱線はさておき、脇田成先生の所論をみてまいりましょう。

 今年も春闘の時期になりました。未曾有の金融危機のもとで、賃上げどころではない、との声も多くあります。しかし筆者は、景気の底割れを防ぐためにも、適切な賃金確保が重要な意義を持つと考えています。実際、ここで賃金・雇用が減少すれば、今時の不況はスパイラル的に悪化することは必然です。
 現在、世界中の政府が金融危機というショック状況に、財政というカンフル剤を処方しています。個別の企業が自己防衛に走って、賃金を切り下げてしまえば、カンフル剤の効果さえもなくなってしまうのです。
 たしかに、しばらくの間苦しい状況が続くかもしれません。しかし我先に出口に殺到すれば、より大きな悲劇を招いてしまうことになりかねません。実は日本経済には2つのバッファーが存在しているのですから、現在はそれをまず使うべき時でしょう。

 現在できることは、2〜3年の短期的には内需を維持し、中期的にそこに雇用構造をシフトしていくことです。また少子化社会保障関連支出は増大するため、そこで働く人々も増やす必要があります。
 このような内需重視の構造に転換して行く場合、政府の直接介入ばかりでは大きな非効率性が生じます。なすべきことは、いったん家計に所得を確保し、その家計の選択を通して、
[A] 需要の中身を吟味し、
[B] その派生需要から非正規労働者の雇用や待遇が改善される
ことこそが望ましく、そこに賃上げの意味があるのです。
(脇田成「我先に出口に殺到するな 賃上げで景気底割れ防止を」「連合総研レポートDIO」第235号、2009年2月1日号から、以下同じ)

まず、不況で総需要が急速に縮小している現状、政府が財政政策で需要を増やすことが必要であることは間違いありません。そのときに所得不足が問題だというのであれば所得面での政策も必要でしょう。
また、産業構造の転換、雇用のシフトが必要であるならば、政府が産業政策でそれをコントロールしようとするよりは、消費者の選択をにより市場を通じて実現されることが望ましいとの意見ももっともでしょう。
ただし、それは必ずしも賃金を通じて行わなければならないという理由はありません。常識的に考えて、供給過剰になっているときに単価が上がるというのはかなり不自然ですし、その帰結は雇用量の減少であるというのも常識と申せましょう。また、いくら賃上げをしたところで失業者や自営業者には直接の効果はありません。政策的に所得を増やすのであれば、減税なり、それこそ定額給付金なりの方法で政府がそれを行うのが正論と申せましょう。
なお私は賃上げがすべてよくないと言っているわけではもちろんありません。一般論として労働条件の改善は好ましいことですし、この厳しい経済環境下でも成長し拡大している企業もあり、その中には労働条件改善の余地のある企業もあるでしょう。そうした企業が経営判断、あるいは労使交渉を通じて適切な賃上げを行うことはまことに好ましいことと考えます。為念。

 近年、「格差」社会と言われる現象が注目を集めました。筆者はこのキャッチフレーズは適切でないと考えています。上位層と下位層の格差が開いたのではなく、平均的に家計の所得が減少した結果、困窮層が生まれたと考えています。
 言い換えれば所得分布が左にシフトし、下位層は困窮していったと見ることができましょう。
 この結果は労働市場の機能を考える上で重要です。分布のばらつきは変化していないのですから、労働市場内部の配分メカニズムはそれなりに機能しています。そのため高賃金層から低賃金層への直接的な再配分は、配分メカニズムを阻害するため、やはり望ましくないでしょう。

ここは最初なにを言っているのか非常にわかりにくかったのですが、要するに賃上げが必要だという理屈付けで、それこそ池田信夫先生や矢野朝水氏などが言っているような「正社員の既得権である高賃金を削って、非正規雇用の賃金や雇用の改善にあてるべき」という意見はダメですよ、と言いたいのではないかと思われます。そして、その理屈として「平均的に下がったのだから平均的に上げるべきだ」ということなのでしょう。ただ、それでは本当に平均的に下がったのか、といえば、世間では「低所得層がより低所得になったことで格差が拡大した」と見方が一般的なのではないかと思いますし、平均的に下がっているというデータも見覚えがありませんが、統計のとりようによってはそうなのでしょうか。私が知らないだけなのでしょう。
それはそれとして、格差があっても全体が底上げされていればかまわない、という考え方は経済学者らしいものですし、その点については私もかなりの程度そう思います。それが賃金水準の上昇によって実現するというのもそのとおりでしょう。ただ、それは基本的には生産性の向上、付加価値の増大を通じてはじめて実現されるもので、そうした前提なしにむやみに賃金を上げても長続きはしないでしょう。
そこで、いや前提はある、という話になるわけですが…。

 それでは何が雇用者所得の「分布」を引き下げたのでしょうか。それは言うまでもなく、長期停滞と非正規雇用化です。しかし2003年以降、日本経済はゆっくりと回復してゆきました。
 回復期には、日本経済という大きなお風呂は、輸出というタネ火だけで少しずつ暖まっていたと言えましょう。少しづつではあるが、アルバイト賃金等も上昇していました。しかしながら本格的に点火する前に、金融危機がやってきて、今では輸出というタネ火が消えてしまった状況と言えましょう。この間に、もう少し賃上げから内需へのルートが大きくなっていたらと、筆者は思いますが、もはやいたしかたありません。
 ただ大切なことは、企業部門には平均的には巨額の内部留保が積み上がっていることです。景況感はGDP比1〜2%(約10兆円程度)に左右されることから思えば、十分な量があるはずです。まずこのバッファーをまず使うべきでしょう。
 ケインズ的な政府の財政政策は各部門が自己防衛のため貯蓄に走る状況で、全体としての貯蓄過剰、つまり合成の誤謬を打破するために行われます。このロジックから言えば、貯蓄過剰で内需不振をもたらした部門の第一は企業部門であり、その貯蓄を使うべきです。

まず「この間に、もう少し賃上げから内需へのルートが大きくなっていたら」というのはおそらく率直な述懐なのでしょう。とりあえず労働分配率を持ち出さないのはさすが経済学者(ずいぶん失礼な言い分ですが)という感じですが、いっぽうで「この間」には賞与は伸びていますし、時間外労働も増えています(連合はそれも批判しているわけで)。「賃上げ」ではなかったけれど、それなりに所得は増加していたのではないでしょうか。まあ、下方硬直性があって将来的にも継続する「賃上げ」でなければ内需にはつながりにくい、という主張にはそれなりに説得力がありますが。ただ、この間に「賃上げから内需へのルートが大きくなっていた」としても、金融危機と輸出の大幅減はしょせん起こったわけでしょうから、そのときはたして内需がどれほど下支えできたのか、賃上げした分だけ雇用調整がさらに過酷になるだけだったのではないか、このあたりは仮定の世界なのでなんともわかりませんが。
さて賃上げの前提ですが、そこは結局例によって「内部留保」ということになり、また同じことを書くのかという感じですがまた書きます(笑)。
で、最初に為念申し上げておきますと、一般論としては、健全な財務体質を確保したうえで、内部留保を有効な投資に回せないのであれば株主や従業員に配分したほうが望ましいという点は私も同感ですし、建前としては内部留保は株主のものであるとしても、現実にそれを積み上げるのには従業員が大きな貢献をしているわけですから、それを従業員に分配することにも理由はあると思います。配当よりは従業員に配分したほうが内需に貢献するという意味では好ましいともいえるでしょう。とはいえ、それではバランスシート上の額面どおりに内部留保を取り崩せるかといえば決してそうはまいりません(とりわけ昨今のような状況下では)。脇田氏は(意図的に?)内部留保を過大評価しているように思われます。
今現在の一般的な企業経営の状況からすれば、本当に賃上げを行えばその分赤字が増えるだけであり、赤字が続けばいずれは内部留保を取り崩して穴埋めをせざるを得ません(逆にいえば、現に余剰人員を抱えながら赤字決算を出しているということは、ある意味内部留保を取り崩して雇用を維持している、というのに近い現状にあるともいえるでしょう)。その分は、バランスシートの左側にある資産が減ることになりますが、賃金はキャッシュで払わなければならないわけですから、基本的には流動資産の現金、預金などでまかなうことになります。ところがこれは内部留保に較べるとずいぶん金額は小さくなります。しかも、これは企業経営の生命線である「運転資金」であり、実際にバランスシートの右側には1年以内に返済しなければならない流動負債がしっかり記載されています。それでは固定資産、土地建物や生産設備、中間在庫を売却して現金に換えましょうか、なんてそんなに簡単にいくわけはないわけで。これを換金したらおそらくは相当の損が出るでしょうから、財源としては心許ないことこの上ありませんし、そもそも土地建物を売却してしまったらそこで働いていた人はどうなるのでしょう。「景況感はGDP比1〜2%(約10兆円程度)に左右されることから思えば、十分な量がある」というのも、内部留保を賃上げに使えばその分設備投資や配当などが減るわけですから、効き方の違いはあるとしても、それほど単純な話ではないはずです。そもそも、この原稿が書かれた時点ではそうでもなかったのかもしれませんが、第3四半期のQEが実質年率マイナス12.7%という事態の中で、はたして「GDP比1〜2%」がどれほど効くのやら、という気もします。
あと、それではどうやって企業に賃上げをさせるのか、というのも大問題です。脇田先生がいかに賃上げを訴えたところで賃上げが行われるわけもなく、それではナショナルセンターがリーダーシップをとって団体交渉で、といっても難しいものあります。賃上げか、さもなくばストライキだ、と経営に迫ったところで、現状では経営サイドにしてみればストライキになれば無給で生産調整・在庫調整ができて涙が出る、というくらいかもしれません(もっとも、労組もそうはならないように作戦を立てるでしょうが)。労働需給が緩やかな現状において賃金を上げさせようというのがもともと筋悪なので、どうしても矛盾はおきます。なんとしても「内部留保を吐き出させたい」というのであれば、内部留保に重課税してその分消費税を下げるなり定額給付金でバラまくなりすればいい(これも筋悪な政策ですが)のですし、それしか方法はないでしょう。そうすれば案外、どうせ重課税されるくらいなら、ということで一部は賃金や雇用に向かうかもしれません。

 それでは二つめのバッファーは何でしょうか。それは雇用保険のいわゆる埋蔵金です。現在、困窮した非正規労働者の中途解雇や雇い止めの問題が盛んに報道されており、心が痛みます。たしかにこの状況で、正規社員のみが高賃金を要求して良いのか、という問題は深刻です。
 しかし筆者はまず政府にできることがあり、財源もとりあえずはあると考えます。現在、政府・与野党から提案されている非正規雇用対策は、雇用保険のいわゆる埋蔵金を使ったものが中心となっています。この埋蔵金は、あれほど格差社会と言われながらも、正規雇用者の保険料が中心に4兆円もの巨額に積み上がっているのです。
 現在、最も状況の深刻な製造業派遣労働者は50万人程度ではないかと思われますが、一人100万円使っても、5000億円程度にしかなりません。(ただ派遣労働者はアルバイト・パートより時給が高いため、モラルハザードを防ぐ現物支給にならざろうえない【ママ】でしょう。)
 また約1700万人以上の非正規雇用全体から考えると、製造業派遣は言わば例外的少数であり、大多数はサービス業など内需に依存しているのです。つまり内需喚起は非正規雇用労働者にメリットが大きく、逆に賃下げなどで内需が冷えれば、より影響を受けるのは非正規労働者であると予測されます。

ここもわかりにくいところなのですが、要するにこれまた賃上げの理屈付けで、池田信夫先生などが主張している「非正規労働者が次々と雇用を失っているのに、正社員の賃上げを行うのは均衡を失する」といった意見に対して「そんなことはない」と言いたいようです。非正規労働者は政府が救済すればよい、正社員が賃上げされてそのおカネを使えば非正規労働者にもメリットがある、それはそれ、これはこれだ、ということでしょう。
さて、雇用保険の積立金について「正規雇用者の保険料が中心に4兆円もの巨額」とのことですが、雇用保険料の半額は使用者が負担していることをくれぐれもお忘れなきよう。もちろん、雇用情勢の安定は企業にとっても好ましく、雇用保険の財源を有意義に使うこと自体は必ずしも否定するものではありません。少なくとも、内部留保を使って賃上げさせようなどという政策に較べたらはるかにまともでマシでしょう。保険である以上は保険料を負担した人が保険給付を受けるというのが筋だろうとは思いますが、そこは社会保険ですからそうそうこだわるべきものではないでしょうし、正社員にしてもとりあえず今現在は自分たちの払った保険料が保険料を払っていない非正規労働者セーフティネットに使われてもそれほど異論はないでしょう。もっとも、いざ自分が失業したときに「実は積立金が枯渇していて失業給付が払えません」となったら困るでしょうが…。
いずれにしても、脇田氏の説明では「非正規労働者が次々と雇用を失っているけれど、正社員の賃上げを行ってもよい」というのがはたしてどこまで説得力を持つかといえば怪しいところで、とりあえず現に失業している元非正規労働者に対して「正社員の賃金が上がればあなたにもメリットが大きい」と言ってもたぶん納得しないでしょう。

 皮肉な見方かもしれませんが、現在、非正規雇用問題の犯人と対策の押し付け合いが政府・経営者・正規労働者の三者で行われていると考えることができるでしょう。リーマンショックよりわずか数ヶ月で、経営者は赤字を喧伝しています。いずれも危機打開を計ることなく、我先に出口に殺到しているのです。そしていずれは企業収益V字回復とやらが喧伝されるのでしょう。その騒ぎのなかで今後、正規労働者の条件切り下げや制度いじりが、声高に叫ばれるでしょうが、それは「奥の手」と言うべきでしょう。まず短期的にはバッファーを使い、中期的には産業構造の転換を図る、そのために賃上げの役割は大きいのです。

まあここは皮肉だということなので省略しようかと思ったのですが、読み返してみて驚きました。脇田氏はひょっとしたら経団連あたりが「リーマンショックよりわずか数ヶ月で、経営者は赤字を喧伝し」「今後、正規労働者の条件切り下げや制度いじりが、声高に叫ばれ」それを行ったあとに「いずれは企業収益V字回復とやらが喧伝される」という壮大なる陰謀(笑)をたくらんでいるとお考えなのでしょうか?これは池田信夫先生の「労組は「階級闘争」「内部留保の分配」を「目くらまし」に使って世代間格差を「隠蔽」しようという陰謀をたくらんでいる」というのに負けず劣らずすごい構想です。まあ、「いずれも危機打開を計ることなく、我先に出口に殺到している」とこきおろしてもいますので、企業にそこまでの知恵があるとはお考えではないのだろうとは思いますが。