対話が難しい

耳塚寛明お茶の水女子大学教授が、毎週月曜日の日経新聞に「まなび再考」というコラムを寄せておられます。今日のお題は「親の収入と教育意識 社会的分裂映す鏡に」。

…子供に中学受験をさせる予定のある親は全体ではまだ13%にすぎない。けれども年収や学歴別に見ると顕著な差異があらわになる。世帯収入400万円未満の家庭の中学受験予定率は7%。収入が増すにつれ上昇し、1千万円以上の高所得層では32%にまで跳ね上がる。

 人々の社会的成功と失敗の個人責任化が進む中で、高学歴高所得層は、ただでその地位を子供に世襲させようとしているのではない。将来を見据えて選択し、代価を払い、親子とも努力という代償をいとわない。合理的かつ正当な手段で学力・学歴獲得競争に勝負を挑む。
 彼らが主張するだろう主観的正当性にあらがい、その選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させることは可能だろうか。この隘路から逃れ出る道はあるのか。我が身、我が子の行く末のみならず、私たちと子供たちが住むこの社会の行く末を見据えること。その想像力に期待するほかない。
(平成20年9月29日付日本経済新聞朝刊から)

まずもって、私は教育問題は素人で、世にありがちな素人教育談義の範疇を出ないわけではありますが、それは棚に上げさせていただきます。
ということで、「我にこそ『客観的正当性』は在り」という傲慢さは、とりあえず信念と志の現れと受け止めておきましょう。それはそれとして。
耳塚氏は、「高学歴高所得層」が「代価を払い、親子とも努力という代償を」払って(他人より多く)「学力・学歴」を「獲得」しようとする「選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させる」ことを主張します。率直なところ、耳塚氏のいうように「我が身、我が子の行く末のみならず、私たちと子供たちが住むこの社会の行く末を見据え」たときに、耳塚氏のいわゆる「機会均等社会」は、おそらく乏しきを分かちあいつつ没落していく社会になるのだろうと私は思うのですが、そうでもないのでしょうか。なるほど、耳塚氏のお好きな「機会均等社会」の行く末がすばらしく明るく豊かなものになると信じ込むためには、相当の「想像力に期待するほかない」でしょうが…。おっと脱線しました。それはそれとして。
繰り返しますと、耳塚氏は、「高学歴高所得層」が「代価を払い、親子とも努力という代償を」払って(他人より多く)「学力・学歴」を「獲得」しようとする「選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させる」ことを主張します。さて、具体的にどうしようというのでしょうか。
たとえば、私学を禁止し、ありとあらゆる教育を無料の公教育にすればいいのでしょうか。しかし、これはすべての教育機関でまったく同等同質の教育が行われる(これは、各機関について教える側だけではなく、教えられる側についても同等同質であることを要します)という非現実的な前提を置かなければ成り立ちません。教育自体はいかに無料であっても、よりよい教育を受けるために遠隔地に通学する、さらには転居するといった「選択権」は、富裕層(この際学歴は無関係と思いますが)により多く発生するでしょう。その「選択権を奪」うには、たとえば住所地など所得とは無関係の条件で通学先を指定することが考えられますが、こんどは住所地によって受けられる教育の水準が違ってしまうという問題が発生します。まあ、耳塚氏にしてみれば、所得で差がつくよりは住所地で差がついたほうが好ましいということかもしれませんが。
あるいは、親が子どもの教育にかける費用の上限規制をする、という方法もあるかもしれません。ただ、この場合は、「貧しいけれど子どもに立派な教育を受けさせるために必死で働いている親」についても同じ規制を課すことになります。これは情において耳塚氏の本意ではないと思うのですが、いかがでしょうか。また、費用の上限規制をしたところで、親が自ら教材を準備し、自ら教えるといった形で、無償で子どもに教育を行うことまでは規制できないでしょう。こうした教育を行う余裕は富裕層のほうにより多く存在することは言うまでもありません。それでは、教育に費やす時間も上限規制しましょうか。そうすると、「貧しいけれど睡眠時間を削って勉学に励む子ども」の勉強時間も同様に規制することになるわけですが。まあ、そもそも、教育の費用や時間の上限を規制するということは、教育水準そのものに対する重大な制約になるわけで、およそ筋の良い発想とは申せないでしょう。
どうしてもというのであれば、強烈な再分配を実施して、親の所得を均一化してしまうという方法があるかもしれません。これはいかに学力と学歴を獲得し、それを用いて高い所得を得たところで、大半は他人の懐に入るということになりますから、学習意欲を減退させ、結果的に学歴も平等化するかもしれません。これはたしかに耳塚氏のお好きな「機会均等社会」かもしれませんが、もちろん、技術革新や生産性向上もストップするわけですが…。
と、極論を並べてきましたが、もちろん耳塚氏としても結果格差を全否定しているわけではなく、「実質的な」機会均等社会を考えておられるわけでしょうから、当然ながら適度な格差は容認されているものと思います。そうでなければ、富裕層に限らず、非富裕層も学習への意欲が湧かないでしょう。とはいえ、私が愚考するに、「高学歴高所得層」が「代価を払い、親子とも努力という代償を」払って(他人より多く)「学力・学歴」を「獲得」しようとする「選択権を奪」おうという考え方に立つ限りは、結局のところはこうした極論が示すような矛盾を回避することは難しいのではないか、と思うわけです。
素人考えではありますが、おカネもちが子どもの教育にたくさんおカネをかけてくれることは、おカネもちでない人にとっても結構なことではないかと思うのですが、どんなものなのでしょう。その教育の成果は必ずしも100%個人に帰するわけではなく、たとえば技術の進歩とかいった形で、世間一般の人にも行き渡ることが期待できるわけですから。高額納税者のおかげで私たちは充実した公共サービスが受けられるというのが現実ですし、それが再分配というものでしょう。
ですから、耳塚氏のいうように伸びる芽を摘むような発想ではなく、伸びる可能性のある芽には水や肥料が行き渡るようにする方向性が大切なのではないかと思うのですが、違うのでしょうか。優れた才能、豊かな素質に恵まれながら、経済的背景が厳しい子どもには、奨学金などの支援を充実させて、おカネもちの子どもに劣らぬ教育を受けられるようにすることのほうが、経済的背景に恵まれないせいでここまでしか伸びない子どもがいるのだから、経済的に豊かな子どももそれ以上に伸ばさないようにすることより望ましいのではないかと思うのですが。
思うに、耳塚氏は、いかなる子どもも、同じようにお金をかけて同じように教育すれば同じように伸びるはずだ(というか、そうあるべきである)、という根拠のない信念をお持ちなのではないでしょうか。そうした信念に立てば、いかなる教育機関も同等同質の教育を実施できるはずだという話にもなりそうです。なるほど(?)、それこそが「客観的正当性」なのかもしれません。私はそういう信念にはちょっとついていけませんし、そうした「客観的正当性」にもあまり関心はありません。私としてはむしろ、人間は多様性を持つものだと信じていますし、その可能性に希望を持ちたいところです。格差はあっても、9月24日のエントリに書いたようなところに「幸福」は必ずあるのではないかと、まあ、これも根拠のないオカルトだと言われてしまうのかもしれませんが。