小池和男『海外日本企業の人材形成』

海外日本企業の人材形成

海外日本企業の人材形成

「キャリアデザインマガジン」第76号のために書いた書評を転載します。

 本書は『海外日本企業の人材形成』だが、著者には『日本企業の人材形成』という本もある。中公新書の一冊であり、著者が提唱した知的熟練論の廉価でコンパクトな入門書・解説書として多くの場面で参考文献にあげられている本である。知的熟練とは事前には十分予測できない(しかし必ず起こる)変化や問題といった不確実性に対応するノウハウであり、長期にわたるOJTを通じて形成される。こうした人材が活躍する日本企業の仕事方式は、海外の日本企業でも通用するのか、というのが本書の「オビ」に書かれた問題意識である。
 著者の多くの研究と同様、この本も多くを現場の聞き取り調査によっている。具体的には、自動車メーカーの海外工場における生産技術者、製造技術者とその周辺の人々に対する聞き取りと、現場の観察である。製品の設計は日本の親会社が行うだろうが、生産ラインの設計・構築には現地の事情が反映されざるを得ない。その局面において、現地人・日本人の生産技術者、製造技術者、さらにはラインの構築に発言し関与する高技能な生産労働者がどのような役割を果たし、その能力はいかに形成されているのかが、アメリカ、イギリス、タイのそれぞれの現地工場で調査されている。その聞き取りはいつもながら入念、周到であり、各地の実態を詳細に明らかにしている。
 こうした調査を通じて、著者は「中堅層とそのすぐ下の層の活躍」を海外日本企業の効率の基盤として指摘する。具体的には製造技術者であり、生産ラインの問題処理はもとより、製品の設計や生産ラインの構想にも参加し発言する。あるいは技能上位1割の生産労働者、具体的には新規生産ラインの立ち上がり準備に従事するパイロットチームのメンバーである。さらに、知的熟練を有する技能上位の生産労働者がそれを支える。ここは日本企業の仕事方式が海外日本企業でも大いに有用となっている部分である。米・英・タイを比較すると、実はタイにおいてもっともよく日本方式が実践されている。これはタイへの投資が他の二国に較べて古くから行われ、日本方式の移転がより多く進んでいるためであろうと著者は指摘する。
 いっぽうで、著者は移転が進んでいない部分も指摘する。たとえば、その重要な一つがキャリアである。日本では技術者の人事異動、担当変更などにより生産技術、製造技術それぞれの分野内で多くの領域を経験するだけでなく、生産技術者と製造技術者の交流もごく普通に行われ、互いにそれぞれの領域の経験を積む。海外では、分野内での経験の拡大は行われているが、分野をこえた交流は乏しいという。
 著者の全体的な評価は、労使関係や人事管理、賃金などの面で日本と異なる制約がある中で、日本の仕事方式は海外にも比較的よく移転されているということであろう。著者はこれにさらに時間をかけて取り組めば海外日本企業の優位はしばらくはさらに強まるであろうと予想する。しかし、それは「日本が日本のよさを失わないかぎり、という制約つき」であるという。従来の、中堅層に力点をおいた中長期的観点からの人材開発を「年功的」で非競争的と断罪し、短期的な成果主義に置き換えている日本の現状からは、著者は日本自身が自分のよさを見失い、それを自ら捨てていく危険性が大きいと危惧している。それがこの本を書いた理由であるという。
 著者はこの本が自身最後の研究書となるであろうと述べている。わが国労働研究の泰斗である老碩学が、その最後の著書で示したこの危機意識に、われわれは率直かつ謙虚に耳を傾ける必要があるだろう。おそらくは、将来のわが国では海外における企業活動の成果が国民生活を支える大きな柱となるだろう。そのときに、その優位をもたらす人材活用、仕事方式はますます貴重なものとなるに違いないから。