大久保幸夫『キャリアデザイン入門[1]基礎力編』

「キャリアデザインマガジン」第61号のために書いた書評を転載します。

キャリアデザイン入門〈1〉基礎力編 (日経文庫)

キャリアデザイン入門〈1〉基礎力編 (日経文庫)

「筏下り・山登りモデル」というのは職業キャリアのかなり一般的なモデルとして有用だろうと思うのですが、もっと拡大して、人生キャリアのモデルとして再構成することもできるかもしれません。人生の「山探し」はなにも職業に限る必要はないわけで(もちろん職業で選ぶ人は多いでしょうし、職業と職業以外で複数選ぶことも可能でしょうが)、そのほうがより豊饒なキャリア論の世界が広がるような気がします。まあ、大風呂敷といわれればそのとおりなのですが。
以下転載です。
 日経文庫の「入門シリーズ」に「キャリアデザイン入門」が追加された。著者の大久保幸夫氏はリクルートのワークス研究所長を長年務めており、わが国キャリア研究の第一人者の一人といっていいだろう。もとより、キャリアデザインは各国固有の社会風習や雇用慣行といったものと深くかかわるものだから、それぞれの国にはそれぞれの「キャリアデザイン入門」が必要だろう。この本は、基本的にはシャインのキャリアアンカー論に依拠しているが、リクルートの豊富なキャリア研究の蓄積のもとにわが国の実情にフィットした内容となっている。キャリアデザインに関してはいささか心許ない「入門書」も散見されるだけに、本格的な入門書の登場はまことに歓迎すべきことだろう。
 さて、この本は内容豊富で、「1・基礎力編」と「2・専門力編」の2分冊となっている。ここでも、それぞれを2回にわけて取り上げたい。
 そこでまず「1・基礎力編」だが、そもそも「基礎力編」「専門力編」という2分冊となっていることが、キャリア形成の実情によく一致しているものといえる。
 近年の一時期、若年雇用対策として「社会人基礎力」の向上が主張されたことがあった。これは、若年雇用問題の本質が需要不足である中ではいささか的外れな議論であったことは否定できないし、また、一部では「社会人基礎力」そのものを統制的なものとして感情的に否定する不毛な議論もあったが、やはり職業人として(さらにいえば成人として)社会生活を送っていくうえにおいては、身についていることが望ましいさまざまな資質があることは否定してもしかたのない事実だろう(その程度やバランスは多様だろうが)。この本では、キャリアデザインの時間軸の上で、学生時代から概ね30代なかばまでをもっぱら「基礎力」を形成・伸長する時期、30代なかば以降をもっぱら「専門力」を蓄積する時期ととらえる「筏下り・山登り」モデルを提唱している。前半期の「筏下り」の時期は、それほど意識的にキャリアデザインを考えず、与えられた仕事、求められる役割を、筏で急流を下るように、全力をあげて遂行していく時期であり、それを通じて「基礎力」が形成されていくとしている。それに続く「山登り」の時期は、自ら選択した専門分野のキャリアを自律性を持ちながらひたすら登りつめていくことで、専門性が高まっていくとしている。その中で、「筏下り」から「山登り」に移行する「山探し」、すなわち自分の専門分野を選択する時期を、キャリアデザインの最重要ポイントとして強調する。これはわが国におけるキャリアデザインのかなり一般的なモデルといえるのではないか。
 「1・基礎力編」は、まずキャリアデザインの理論を簡単に整理し、「筏下り・山登り」モデルを提示する。そのうえで、「筏下り」の時期におけるキャリアデザインの考え方と、「基礎力」の具体的な内容とその形成のための心構えなどについて説明している。「自分探し」や「即戦力」といった、依然として広く蔓延している思い違いについてもていねいに誤解を解いている。正社員就職を勧め、キャリア中断を強く戒めるなど、わが国の実情をきちんとふまえた適切な記述も多い。ともすれば混乱しがちな「基礎力」の解説も非常によく考えられた、整理されたものとなっている。文章も平明でわかりやすく、全体として理解が進みやすいだけでなく、読者が「やる気」を持てるような本になっている。入門書としてはまことに優れたものといえるだろう(もちろん、現実に書いてあることを実行するのは容易ではないわけだが、入門書というものはそういうものだ)。
 いっぽう、やや不満が残るのは、かなりの程度職業キャリアに特化した内容となっており、人生キャリアのデザインとの関係についての記述が希薄な点だ。一応、「節目」や「トランジション」といった考え方にも言及はされているし、出産とキャリアデザインについても簡単に触れられてはいる。しかし、一貫して「筏下り・山登り」モデルが強調されているため、結婚・出産や介護、転勤、あるいは勤め先の倒産などといったイベントにともなうキャリアデザインの描き直しという側面が軽視されすぎているという印象があり、やや単線的で均衡を欠く感を受ける。
 もっとも、現在のわが国におけるキャリアデザインをめぐる状況がかなり混乱していることを考えると、入門書としてはまずは一般的なモデルを提示してさまざまな誤解を解くことが優先されるべきで、それ以上踏み込むのは現状では難しいという判断なのかもしれない。そういう意味ではその目的は十分に達成されていると思われる。
 ※『キャリアデザイン入門[1]基礎力編』の「1」はローマ数字です。