辻太一郎『採用力のある面接―ダメな面接官は学生を逃がす』

採用力のある面接―ダメな面接官は学生を逃がす (生活人新書)

採用力のある面接―ダメな面接官は学生を逃がす (生活人新書)

キャリアデザインマガジンのために書いた書評を転載します。いただきものなので書評を書きましたが、特段お勧めするというわけではありません。
 景気の回復を反映して、新卒採用は活況を呈しているらしい。かつての「超氷河期」とはうって変わって、学生の売り手市場になっているという。当然ながら、優れた人材の確保には困難が大きくなってきており、それは多くの企業の関心事であるに違いない。
 この本はありていにいえば採用業務のマニュアル本であり、採用プロセスの中でいかにしてほしい人材を獲得するかを述べている。副題にもあるとおり、その中心は企業と学生のインターフェースである「面接官」である。優れた面接官による魅力的な面接が優れた人材をひきつけ、入社につながるということで、そのためのノウハウが述べられている。ビジネスを通じて蓄積された昨今の採用環境や学生の動向、意識などについての情報も、採用規模が小さくてそうしたものが得にくい企業にとっては興味深いものだろう。もっとも、これは著者の現場感覚によるものらしいので、そのまま鵜呑みにしていいかどうかには留保がつく、というか注意が必要だろうが、採用・就職は必ずしも理屈では割り切れず、むしろ出会いや偶然に左右される部分が大きいだけに、こうしたノウハウや情報からヒントを得られることは多いだろう。
 面白いのは、著者は採用代行サービスの経営者であるにもかかわらず、著書の中では「面接官の訓練」(あるいは「学生の訓練」)が強調されていて、採用代行自体への言及があまりないことだ(まあ、実際にビジネスの主力は訓練なのかもしれない)。これはある意味、採用代行というものの限界を率直に認めているようでもあり、かえって好感が持てる。
 現実に面接に関わってみると、驚くような優秀な人材にでくわすことがある。その後の経過を聞いてみると、やはり内定している。しかし、そういう人材が入社することは少ないのが現実ではないか。誰が見ても魅力的な人材は、結局はより魅力的な就職先に流れていってしまう。これは致し方のないことだ。
 そういう状況にあっては、「他社では見逃されているようだが、実は優れた人材」とか「他社では活躍できないかもしれないが、わが社なら活躍できそうな人材」を多く探し当てられた企業が、採用市場の成功者といえるのではなかろうか(もちろん、これは逆にいえば、より多くの人、さまざまなタイプの人が成長できる、活躍できる風土、環境を持つ企業であることが望ましいということの裏返しだろう)。
 採用代行業者は、おそらくは前者を探り出す能力には優れているかもしれない。採用面接とは結局のところ面接される人の(隠れた)良さを引き出していくための、面接する人とされる人の共同作業であり(これは私自身も多くはない経験を通じて痛感しているところだ)、数多く面接の経験を重ねた代行業者であれば、そうしたノウハウに優れていることは期待できそうに思える。しかし、後者はどうだろうか。後者の人材を探り当てるには、なにより自社についてよく承知していることが必要であり、それは外部の人材には望むべくもない。さらに、これには反対の側面もあって、いかに優れた人材であっても、企業の風土や雰囲気などにフィットしなければ、その能力を発揮できないままに終わるということも十分ありうる。ここの部分の判断も、外部者には難しい。多くの企業で、自分の会社・職場の風土や雰囲気を知るいっぽう、学生との感覚も近い若手社員に「この人といっしょに働きたいか、うまく仕事ができそうか」といった観点からスクリーニングの第一次面接を行わせているのは、実は非常に合理的な考え方なのではないか。
 もちろん、一企業の人事部門にできることには限りがあり、必要に応じてコンサルタントなどの助けを借りることも大切だろう。しかし、とりわけ長期雇用・長期育成で活用しようという社員の採用にあたっては、企業が直接に関わり、コミュニケーションするプロセスが最重要なのではなかろうか。
 余談だが、「面接官」という用語は多くの企業で広く使われている(私の勤務先でも使われている)ようだが、「官」というのは基本的にお役人なのだから、「面接員」とか「面接者」とかの用語のほうがいいのではないだろうか。「官」と言われると、どうも権威主義的というか、命令して従わせる、といった印象を受けて違和感がある。まあ、ことばを変えてみたところで面接する人とされる人の力関係が変わるわけではない、ということかもしれないが、昨今のような売り手市場では必ずしもそうとばかりもいえないような気もするのだが…これは気にするほうがバカなのだろうか?