橘木俊詔『格差社会』

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)

橘木俊詔格差社会』の疑問点シリーズその2です。

最低賃金は低すぎるか

橘木先生はこの本の中で、わが国で貧困(この定義が微妙なのですが)が増加している一因は、わが国の最低賃金が低すぎるからだと、生活保護との比較を通じて指摘しておられます。

…最賃額の方が、生活保護制度による支給額よりも低くなっているのです。
 生活保護制度による支給額は、人が最低限生きていけるだけの生活保障を念頭においています。したがって、それより低いということは、最賃が生きていけるだけの生活費さえも支給していないと解釈できます。しかも、生活保護を受けている人は労働をしていない人が圧倒的に多いのです。一方、最賃を受け取る人は労働をしているのです。労働をしているのにもかかわらず、労働をしていない人よりも少ない収入しか得られないというのは、理解しがたいことです。
(上掲書、p.81)

これは、政治家や労働組合の活動家なども「最賃がいかに低いか」を訴えるときにたびたび持ち出す話なので、よくお目にかかります。直観的にはエモーショナルに訴える話なので、プロパガンダとしては効果的でしょう。しかし、理屈の上ではどうでしょう。
最低賃金は低すぎるか」というタイトルをつけましたが、ここでは一応水準の議論はしません。理屈として、橘木氏の主張には違和感があります。


わが国の最賃は、労働者の生活費、類似の労働者の賃金、通常の事業の支払能力を考慮して決定するとされています(最低賃金法3条)。労働者の生計費のみによって決定するわけではありません。いっぽう、生活保護については「健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」と明確に規定されています(生活保護法3条)。ですから、現行法の範囲では、最賃と生活保護とを比較するのは無意味です。
もっとも、橘木氏は、最賃も生計費のみを考慮して決定すべきだとの考え方かもしれません。しかし、最賃のカバーする労働者はほぼ労基法上の労働者と同じ(最賃法は労基法から派生したものですから当然ですが)で、かなり広くなっています。その中には、来客の少ない日中に、隣家の学生がアルバイトで店番を引き受けているといったものも含まれますし、十分な資産収入のある家庭の主婦が、なかばボランティア感覚で福祉事業の簡単な仕事に従事している、といったものも含まれます。たしかに、最賃ギリギリの仕事に従事する人のなかには、橘木氏が指摘するように、もっと高収入の仕事を望みながら得られない人も多いでしょうが、だからといって一律に最低賃金を引き上げるのはやはり理屈に合いません。橘木氏のいうような例に対処するには、最低賃金の引き上げではなく、別途の福祉的な給付(就労促進型のものとすることは大いに検討に値するでしょう)で行われるのが適当なのではないでしょうか。そもそも、なんといっても、最賃の引き上げでは失業者を救済することはできませんから、そこに大きな限界があります。
しかし、橘木氏はこの本の後段でも、最賃の引き上げを訴えた上で、「ややエモーショナルなこと」との注釈つきではありますが、こんなことを書いています。

 最低賃金を上げることを嫌がる経営側に対して、私は次のように問いたいです。「あなたの息子(あるいは娘、妻)が時給600円、700円で働いていることを知ったら、あなたはどう思いますか?」と。600円、700円の賃金では、とても食べてはいけません。自分の息子が、そういう働き方をしえいることに、何も感じない人はいないと思います。その感情を私は経営側に持ってほしいと述べておきます。
(同書、pp.166-167)

憤懣やるかたないという書きぶりですが、力み返って大いに空振っています。潤沢に仕送りをしている息子が、暇つぶしと小遣い稼ぎとナンパを目当てにファーストフードで時給600円でアルバイトしていることを、その親である企業経営者が知ったとしても、特段の感慨はないでしょう。最低賃金というのはそういうものまでカバーしているのです。
繰り返しになりますが、私はここで最賃の水準自体をうんぬんするつもりはありません。貧困に対する施策の必要性も、さらにいえば現状の日本では再分配政策の強化が必要であることも認めています。しかし、その解決策は最賃を生計費基準のみで引き上げることではありませんし、経営側を悪者にするのは筋が通りません。
実際、橘木氏も、その直後のフリーター、ニート対策の項では、最後をこう締めくくっています。

フリーターしかなりえなかった世代の人々は、いわば機会の不平等のデメリットを直接受けた、と解釈することも可能です。就職先を探す時期にたまたま日本経済が大不況だったので、やむをえずフリーターになったのであれば、機会が与えられていなかったといえます。このことを償うのは、国民の代表である政府の仕事ではないでしょうか。
(同書、p.170)

機会の不平等がどうこうというのは必ずしも無条件では同意しにくいのですが、少なくとも貧困の救済のための施策が「国民の代表である政府の仕事」という指摘はそのとおりだと思います。しかるに、時給が低いから生計費が十分に稼得できない人の救済がなぜ企業の仕事になるのでしょうか。それはやはり政府の仕事ではないでしょうか。どうも橘木氏の主張は理解に苦しみます。