"Happy Holiday"? or "Merry Christmas"?

先日、クリスマス・シーズンでにぎわう(なんてナマやさしい代物ではありませんでしたが)東京ディズニーランドに家族連れで行ってまいりました。「イッツ・ア・スモール・ワールド」がクリスマスバージョンになっているということで観覧してきたのですが(上のムスメは大喜びでした)、現地に行くと「クリスマスバージョン」ではなく「ベリーメリーホリデーバージョン」となっています。あれ?と思ってみてみると、アトラクションの中でも「クリスマス」という表示は出てきません(日本語、英語以外の言語ではそれらしき表示もありましたが、なにせよくわからないので自信なし)。


これはどういうことかというと、米国では宗教的多様性への配慮から、クリスマス休暇のお祝いのことばを"Merry Christmas"から"Happy Holiday"に変えようという運動があり、それに同調したものだということのようです。いかにもダイバーシティの本家本元(?)らしい話で、そういえば「クリスマス・ツリー」ではなく「ホリデー・ツリー」とか「ニューイヤー・ツリー」、「クリスマス・カード」ではなく「シーズンズ・グリーティングス・カード」というのだ、という話も聞いたことがあるような(自信なし。他の宗教・宗派のものなどを勘違いしているかも)。ここまでいくと若干原理主義的な感もありますが、そんなお気楽なことを言うのはたぶん日本人くらいのもので、宗教のことですからそれが重大なのでしょう。
今朝の毎日新聞によれば、当然ながら、米国内のキリスト教右派にはこれに反発する動きもあるようです。

…大手小売りチェーン「ターゲット」の約1,400店では12月の特売期に入っても「メリー・クリスマス」の表示が目立たない。こうした傾向は近年、米国へキリスト教文化圏以外から移民が大量に移り住み、多民族化が進むにつれ強まっている。
 一方で、反発も生まれている。キリスト教右派団体「アメリカ家族協会」は今回、ターゲットを対象に「店内でメリー・クリスマスの表示を禁じている」として抗議、60万人の署名を集めるなどの不買運動に乗り出した。同協会代表は「36ページに及ぶ広告の中にクリスマスの文字が全く見当たらない」などと批判している。
…この論争に関連し、ハスタート下院議長がワシントンの連邦議会議事堂前に立つ「キャピタル・ホリデー・ツリー」を「キャピタル・クリスマス・ツリー」と改名するよう命じるなど、全米で同様の動きが広がっている。
 だが、保守系FOXテレビの調査では42%が宗教色を強める方向での改名の風潮を不愉快に感じているとされ、世論は分裂状態だ。
(平成17年12月22日付毎日新聞朝刊から)

もっと寛容でもいいのではないか、と思うのは私に宗教的情操が乏しいからでありましょう。それを承知のうえで書きますと、私は宗教的多様性への配慮には共感しますが、経緯はともあれ、「アメリカ合衆国」を建国したのはキリスト教徒なのですから、その歴史的経緯にかんがみてキリスト教には特別の敬意が払われるべきだ、との考え方も理解できないものではありません。社会的なバランス感覚の問題ではないかと思います。
とりあえず、絶対に安価で品質のよいモノを買わなければならない、というルールはありませんから、好きなモノを好きな店で買えばいいわけです。その理由がなんであれ、嫌いな店では買わないというのも個人の自由でしょうから、不買運動もご自由だということでしょう。特定宗教を優遇させるために不買運動を組織するというのは私の価値観には合いませんが、彼らの価値観を否定する理由も私は持っていません。多様な考え方がありうる問題に関しては、たとえば環境破壊への抗議ならいいが宗教的理由はダメ、という考え方には私は賛成できません。逆説的ですが、多様性を尊重する以上は、この不買運動も認められなければならないということではないでしょうか。
もちろん、不買運動を仕掛けられた店はおおいに迷惑でしょうが、それで困るのなら適度に「メリークリスマス」と掲げればいいわけです。ただ、一口に「適度に」といってもこれが難しいわけで、大々的にクリスマスを展開すれば、それこそ今度は非キリスト教徒から不買運動を招くかもしれませんし、控えめに配置したくらいではキリスト教右派は納得しないかもしれません。あえてクリスマスをシャットアウトすることでライバル店との差異化をはかるという作戦だってありうるでしょう。まあ、これも店の経営戦略、経営判断ということではないでしょうか。そういう難しいビジネス環境で商売をしている以上は、ある意味避けられない判断なのかもしれません。
下院議長が「キャピタル・ホリデー・ツリー」を「キャピタル・クリスマス・ツリー」と改名するよう命じた、というのも、基本的には同じことなのでしょう。やはり私にはあまり立派な行動とは思えないのですが、とはいえそれが民主的なルールと手続にもとづいて彼の権限で行えるのなら、自らの政治的信条に従って(社会の秩序や安定に配慮して、かもしれませんが)そう命じることができるはずです。
結局のところ、多様性を受け入れるということは、こうした難しい問題にきちんと取り組まなければならない、ということなのでしょう。個人の根本的な価値観にかかわる問題ですから、もちろん非常に困難な課題であり、バランス感覚と口では言っても決して容易ではありません。とはいえ、グローバル化の時代にあって、多様性の容認はわが国でも避けては通れないでしょう。
たぶん、なにより必要なのは、私たち自身が自分の価値観をしっかりと持つことなのかもしれません。「どのような価値観か」ではなく、「どのくらいしっかりした価値観か」のほうが案外大切なのかもしれません。それは一見不寛容につながるような気もしますが、自らの価値観が受け入れられない苦痛を知っている人のほうが、他人の価値観を真剣に理解しようとする(理解できないにしても)のではないか、とも思えるからです。自分の価値観を持っていない人に、「あなたの価値観に私も同感だ」と言われても感激は少ないでしょうし。
なんか、ずいぶん大仰な話になってしまいました。ダイバーシティにかかわりはじめてからいろいろと考えているテーマなのですが、まだ全然まとまりません。まあ、正解を求めようというのが無理なのかもしれません。

  • ところで毎日新聞さん、「42%が宗教色を強める方向での改名の風潮を不愉快に感じている」だけじゃ、どうなのかよくわかりませんよ。「42%は不愉快で58%は愉快」なのか、「42%は不愉快で50%はどうでもよくて8%は愉快」なのか、まるで違っちゃうと思うんですが。ま、いずれにしても分裂はしてますけどね。