広田照幸『《愛国心》のゆくえ』

「愛国心」のゆくえ―教育基本法改正という問題

「愛国心」のゆくえ―教育基本法改正という問題

リンク先で絶賛されていましたので、2520円払って買って読んでみました。これとか、これとかの検討に若干なりとも関わった身としては、あまり意見が一致しないだろうことは目に見えていたのに、ぼくってほんとマジメ、というかつきあいいいよね(笑)。
で、読んでみたら、たしかに意見は違った(でも、事前の予測ほどは違わなかった)けれと、本当に面白くてとても刺激的な本で、これなら買って読んで損はなかったなあと思いました。ああ、ぼくってとってもサティスファイサー(爆)。
それはそれとして、面白かった、刺激的だった、というのは掛け値なしに本当のところで、たいへんスリリングな気分で一気に読了しました。


私は著者については著名な教育学者という以上の知識はなく、著者の他の著作も意識的には読んだことがないので見当はずれになるでしょうが、感想を書いて見ます。
立場の違いを超えて、「多様性を大切にすべき」とか、「政治教育の必要性」といったことについては私もまったく同感です。あとは結局のところ、教育サイドの主体性、自主性にどこまでを容認するかという範囲の問題なのでしょう。この本のメインテーマは教育基本法改正の是非で、著者はこれらの観点などから改正すべきでないとの立場を取っていますが、異なる「許容範囲」を設定すれば、この本の論法は多くの場合「改正すべき」の議論にも使いうるもののように思われます。それだけニュートラルな議論をしているということなのだろうと思います。
実際、著者は学校教育、教師の自由度を広く認めるべきとのスタンスですが、それにしても「終戦記念日には靖国参拝して先人の犠牲を思い起こすべし」だの、「女性は家庭にあって良妻賢母たるべし」だのという「政治教育」まで許容する覚悟はないでしょう(もちろん、私もそんな論外な「政治教育」は到底容認できません。為念)。それと同様に、私などは民主的に選出された議会による民主的プロセスで法制化された「日の丸・君が代」を公然と否定するような「政治教育」にはなかなか容認しがたいものを感じますが、これは許容範囲の違いの問題だと一応は考えられるでしょう。
こうした考え方のもとに、私としてはこの本に大きな点として3点申し上げたいことがあります。
ひとつめは、「日の丸・君が代」問題に対する著者の姿勢に関するもので、たしかにこれはある意味著者らにとって象徴的な問題でしょうし、「強制」という面で抵抗感・拒絶感が強いことはわかるのですが、しかしここまでの極端な姿勢は、かえって著者の主張を一般に訴求するうえで不利なのではないかと思います。とりわけ、160ページ以降で、「日の丸・君が代」に反対しない教員をすべて一律に「事大主義」の役立たず(とは明文では書いてはありませんが)教員と断罪し、それに反対する教員を一律に「非常に貴重な資源」と決めつけているのは、あまりにも極端な二分法で、一般の感覚からかけはなれています。これはこの本の信頼性、説得性を著しく低下させるのではないでしょうか(特にこの本の場合、教育基本法改正反対論の多くにみられるような、二言目には「戦争」とか「侵略」とかを持ち出して思考停止する(これは修辞であって特定の著作を指した表現ではありません)ような本ではなく−「在日」の使い方も抑制的ですし−、あるいは教育基本法憲法と同様神聖不可侵なものとして神格化する(以下同文)ような本でもないと思われるだけに、非常に残念です)。
ふたつめは、おそらく紙幅の事情で触れられなかったのだろうとは思うのですが、この本が主張するように法の関与を抑制し、教員に相当の自由度を与えるのであれば、それは子どもや保護者など「教育を受ける側」に十分な「選択の自由」を付与する必要がある、ということです。現状、公立の義務教育については受ける側に選択の自由はほとんどないわけですが、これは選択するまでもなく、どの学校、どの教員でも同様の教育が受けられる(これがどの程度現実的な想定なのかは知りませんが)ということが大前提になければならないはずでしょう。その「同様さ」が担保されないのであれば、教育を受ける側にも選択が可能でなければならないはずです。下世話な話ですが、私は君が代の斉唱のときに「良心に従って行動してください」などと発言する教員のいる学校では金輪際子どもの教育を受けさせたくはありませんし、家庭科の授業で従軍慰安婦の話を持ち出す教員の教育だって受けさせたくありません。万一そんな不幸な事態になれば、私学に転向させるか、ほかのもっとまともな教育が受けられる地域に引っ越すでしょう。ただし、これは経済的負担がつきまとう(特に私学だと「二重の負担」となる)だけに、すべての人が取りうる手段ではありません。となると、保護者がこうした経済的負担に耐える人だけが望ましい教育を受けられるということになってしまいますが、これは著者らも望むところではないでしょう(加えていえば、近辺に他に選択肢のない地方などではどうするのかという問題もあります)。さらに下世話な話で申し訳ないのですが、著者らは、自らの子どもなどが「終戦記念日には靖国参拝して先人の犠牲を思い起こすべし」だの、「女性は家庭にあって良妻賢母たるべし」だのいう教育をなす学校・教員に当たってしまったら、それも自由度の範囲として甘受するのでしょうか(私ならそんなのとんでもないということで、私学または転居を選びますが。為念)。というか、もっと言えば、もし「日の丸・君が代」否定の教育がそんなにすばらしいのであれば、営利に敏い私学が生徒確保のためにとっくにやっていると思うのですが。いやこれは余談ですが。
もうひとつは、著者が222ページで「教育の自由、専門性への信頼といったものが肝心」と述べている点との関連で、教員や教育学者が著者のいう「信頼」を獲得するには、これから長く厳しい道のりが必要になるだろう、ということです。極論すれば、著者の所論は、著者らに向かって「小泉純一郎前原誠司、あるいは(誰でもいいですが)安倍晋三小沢一郎は政治の専門家なのだから、信頼せよ」と言っているに等しいとすら言えるかもしれません。
いかに仲間内で高い評価を受け、絶大な信頼を寄せられているにしても、こと教育の現場においては、少なくとも教育を受ける子どもたちや保護者の信頼を受けていなければなんら意味はないでしょう(まあ、卒業生を受け入れる産業界の信頼とまでは申し上げないにしても)。果たして、現状の教員や教育学者、あるいは文部科学省が、「専門家だから信頼しろ」と言って信頼される状況でしょうか。「それは国民の無知蒙昧ゆえであり、黙って専門家に従えばよいのだ」という言説は、仮に百歩譲ってそれが事実だったとしても、およそ社会的に認められるものではないでしょうし、著者らも全面的に否定するものでしょう。たしかに、教育研究の専門家をさしおいて、企業経営者やスポーツ選手、作家などが「教育改革国民会議」に糾合されて教育政策を議論し、方向性を示すといった現状は、およそ正常ではないかもしれません。しかし、事態をそこまで至らせるほどに信頼を失っていることに、教育関係者の率直な反省が必要なのではないでしょうか。
もちろん、手足を縛られたままで「政治教育」などの成果を示すことは難しく、まずは自由度を与えるべきとの議論もあるでしょうが、ことはそんな容易なものでしょうか。まずは、現行制度のなかで、学級崩壊をなくし、正常な学究運営を確保し、学習達成度を向上し、卒業式の秩序の回復など学校の風紀や生徒の生活態度を改善するといった、より現実的な部分で成果を示さなければ、教員、教育学者、文部科学省への信頼構築は難しいのではないかと思います。それが、著者らの理想とする教育を実現するために、現実的には不可欠な第一歩となることでしょう。