労使の「新しい公共」

 社会経済生産性本部はこの7月6日・7日、毎年夏に恒例のトップセミナーを開催しました。今年は「生産性運動50年、軽井沢トップ・マネジメント・セミナー50回記念事業」ということで「社会経済フォーラム(軽井沢賢人会議)」と銘打っています。はあそうですか賢人ですか。
 くだらないオチャラカシはともかく、50回記念ということでなかなか力の入った内容だったようで、その「とりまとめ」が社経生のホームページに掲載されています。その眼目は「これまでの公共(官やお上意識)」ではない、「新しい公共」ということのようです。引用してみましょう。

 「新しい公共」は、政府ではない。社会の共通利益を追求するために、個人(部分)と社会(全体)を結びつける「考え方」である。全体の利益のために法や制度で個人の自由を規制するのではなく、個人が「新しい公共」にてらして自らの行動を律することで全体最適をめざしている。いうなれば、「新しい公共」は個人の精神の状態であり、原理主義功利主義でない、お互いを思いやるケアリングの考え方が広がることで実現できると考える。他人を思いやり、認め、褒めたたえることである。「新しい公共」は、ケアリングの考え方を国外にも広げれば、グローバルに通ずる概念であると信じる。
世界的なNGO、国内でのNPOの台頭、政府の規制改革、公共分野での官民協働、企業のCSRもこのような潮流といえる。
 「新しい公共」は、人々の信頼の基盤(ソーシャルキャピタル)によって支えられる。なぜなら、公権力を後ろ盾にした官のシステムではなく、個人や組織が自律的に担っていくからである。また、「新しい公共」にてらして、個人と組織と社会の好循環をはかりあらゆる社会の構成員が行動する必要がある。多様な存在が担い、その構成員が有する権利は、「差異への権利」として認識される。これは、他人を配慮する「ケアリング」の考え方である。
 「新しい公共」を実現するためには、ケアリングを共通の価値観として持つための教育、個人を公共に引き出すしくみづくり、すなわち「新しい公共」を担う人づくりが重要となる。
https://www5.jpc-sed.or.jp/files00.nsf/276697182031a3fd4925672c001a56da/eb5d7eaed30562b54925703e001abddc/$FILE/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%8F%90%E8%A8%80.pdf
(強調原文)

なかなか意欲的ですが、なんだかどこかで見たことあるような…?


ありました、ありました。一昨年初に発表された経団連の「新ビジョン」です。経団連のホームページに掲載されている「ポイント」によれば、

2. 「公」を担うという価値観が理解され評価される
こうした社会においては、国が「公」<おおやけ>の領域を規定し、隅々まで神経を行き届かせて統治するのではなく、自立した個人が意欲と能力を持って「公」を担っていく。そのためには、個人の多様な必要性や欲求に柔軟に対応できるよう、官と民、国と地方の役割を根本から見直し、地域が主体となって新しい豊かさを発信していく。そのため州制を導入する。
また、地域の自律を促すためには、「公」を担う意識を持った個人がフラットなネットワークを構築し、協力的市場の形成を通じて、地域にある潜在的な需要を顕在化させていく。
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/vision2025.html#part2

で、「新ビジョン」そのものをみてみると、こう書いてあります。

(自立した個人の活動の)あり方としては、たとえばNPO、NGOの活動への参画であろう。地域社会においては、これまで官や民が担っていた製品・サービスの供給を、NPO、NGOが担うケースが出ている。福祉、教育、環境など地域に根ざした分野においては、むしろ官の組織よりもNPO、NGOのほうが、社会の必要性をつかめる場合も多い。もちろんNPO、NGOの活動原理は奉仕の気持ちである。有償、無償を問わず、利他を願う個人の行動がその基本となる。これらの行動が今日、日本社会において崩壊しかけている「共感と信頼」を再構築する。
(社)日本経済団体連合会(2003)『活力と魅力溢れる日本をめざして』日本経団連出版、p.57から
(強調原文:原文では傍点)

まったく同じとは言わないまでも、よく似ています。なんか労使の見解がここまで同じでいいものだろうかという気もしますが、生産性運動を推進する労組であればむしろこれが当然なのかもしれません。もっとも、当然ながら双方とも、「同じではない」「ここが違う」などの主張はあるでしょうが。

  • 社経生は労使で運営される組織ですが、事実上労組に重点があると言ってもいいだろうと思います。

それでは、労組の役割についての両者の見解はどうでしょうか。
社経生の「取りまとめ」のほうは、

労働組合の新しいかたち=組織を超えた働く個人のサポーター
新しい役割=「新しい公共」の実現をめざした組織内外における個人の活躍の場の提供

 労働組合は、組合員と企業の利害関係の調整を賃金面など雇用処遇を中心に担ってきた。業績連動型報酬体系の拡大や雇用の多様化などによって、賃金交渉などのあり方が変質し、労働組合の役割も変化している。雇用社会の中での最大組織である労働組合には、「新しい公共」の実現にむけて、社会的な雇用のミスマッチの解消や企業人として培った能力を社会に還元するためのしくみづくりなど、人間価値向上の精神のもと、働く個人の能力が社会で最大限に発揮されるための場づくりが求められている。
(前と同じ)
(強調原文)

それに対し、経団連の「新ビジョン」では、

労働組合も変革を迫られる。今日、組合員の組合活動への参画意欲が低下しており、労働組合運動が内部から自壊する危機に瀕しているといっても過言ではない。労働組合は、経営側の幅広い提案を受け、多様化する職場の意見を集約し、それをもとに労使の話し合いによって決定し、実行に移していくという本来の役割に徹するべきである。
(前と同じ、p.61)

いやはや、「内部から自壊」や「本来の役割」には労組サイドからはおおいに異論はあるでしょうが、それはそれとして、どうでしょうか。私にはほとんど同じにみえますが、これもいろいろな意見があるでしょう。
それぞれの見解の当否についてはさらに多くの議論があるだろうと思いますし、ここではこれ以上踏み込みませんが、それにしても経営サイドに対して労組サイドが「1年半遅れ」になっているのは気になるところです。だからどうだというわけでもないのですが。