希望学によせて

一昨日のエントリのコメント欄で「希望学」が話題になりましたが、タイミング良く?本日発行のメールマガジン「JMM」で、希望学仕掛人である東大社研の玄田有史氏が「ニートと希望のパラドクス」という一文を寄せています。抜き書きしますと、

 文章を書くときに、今一番気をつけているのは、「誰に読んで欲しいのか」ということです。…今度発売される『子どもがニートになったなら』(NHK生活人新書)では、タイトル通り、「親」を強く意識しました。
…働くことに希望が持てないニートは、経済的に貧しい家庭から生まれる傾向があります。しかし、貧しい環境に育った人はすべて希望が持てないと決めつけるのも、まちがいです。希望と社会や経済の関係は、それほど単純な階層問題ではない。貧しい家庭に生まれた人たちは希望が持てないという主張にも、もっと厳密な検証は必要です。
 私たちが最近行った20代から40代へのモニター調査の結果では、小学6年生の頃、約7割は将来なりたい希望の職業があったといいます。そのなかで、実際に希望の職業に就いたのは1割にも満たない。しかし一方で、過去にそんな希望する職業を持っていた人の方が、希望がなかった人よりも、結果的に「やりがい」のある仕事に就く確率は、はっきりと高くなっていたのです。
 希望は、具体的に特定化されるほど、出会える確率は下がります。その意味では、多くの希望は、失望もしくは絶望を必然的に伴っている。だから若者も、希望なんて持ってもどうしようもない、意味がないと思うかもしれない。しかし、希望を保有すること自体が、個人の思考や行動を変え、ひいては個人と社会の関係を変えていく。その結果、希望を持つという行為やそこから派生するプロセスが、希望を持たなかった場合に得られなかった、より高次の充足を実現する確率を高めるのです。
 希望は求めれば求めるほど逃げていく。しかし希望を求めなければ、強い充実も得られない。それが、希望のパラドックスです。…だがそれは、…希望がつねに失望を伴いながら、それでも希望が充実の源泉だというのは、希望に関する事実なのです。
 そんなパラドキシカルな希望の真実を、希望をもてない個人を念頭に、明確な言葉にしていく。そうでなければニートが提起した希望の在り処という本質的な問題は、何も解決しないでしょう。だからこそ、「希望を社会科学していく」ことを目指した『希望学』に、私たちはこれから取り組んでみようと思っているのです。

たぶん週末までは?以下で見られると思いますので、ぜひ全文におあたりください。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html
まあ、基本的には新著(『子どもがニートになったなら』NHK生活者新書、小杉礼子氏との共著)の宣伝でもあり、本を読まなければ意味するところもわからないのかもしれませんが、これを読むと、一昨日のエントリで紹介した山田昌弘希望格差社会』が「過大な夢をあきらめさせる」ことの重要性を説いているのとは一見して対照的です。


実はいま、出先で書いていますので、手元に本がありません。記憶で書いているので違うところもあるかも知れませんが、山田氏はアニメーターを例にとっていたと思います。若者が自分は宮崎駿のようになれる、とまではいかないまでも、いっぱしのクリエイターになれる、という過大な夢、期待を持って業界の長時間・低賃金労働に身を投じてしまい(しかも、業界自体がそうした若者の労働を前提にしないと成り立たなくなっている)、結局は一握りの勝ち組以外は何も残らぬままに放り出される、そうなる前に、なるべく早く自分は宮崎駿にはなれない、いっぱしのクリエイターにはなれない、とあきらめさせて転進させることが大切だ、というような話だったと思います。アニメは典型例、極端な例かもしれませんが、たしかに若者に人気のある業界は、程度の違いはありますが、こうした性格を持っていることが多いのではないでしょうか(私は、有名な「電通過労自殺事件」の若者も、これに近いのではないかと思っています。電通はもちろんかなりの高給を支払っていたわけではありますが)。
山田氏のこの主張は、苅谷剛彦氏が「階層化日本と教育危機」で指摘していた(そういえば、「希望格差」と「インセンティブ・ディバイド」はそこはかとなく似ていますね)、「低学力・低階層の高校生には『勉強なんかできなくても自分は成功できる』という有能感が顕著にみられる」ということと妙に符合しているように感じます(たしか、苅谷氏はこれについて、彼らはその有能感を獲得するために自ら勉強の競争から「おりる」のだ、と言っていたと思います。こちらも手元に本がなく、記憶で書いているので違うところがあるかもしれませんが。すみません)。要するに、あきらめさせるというのはかなり難しいのだろうな、ということです。
こうした「過大な夢」「根拠のない有能感」が人生のクオリティを低下させる要因になる、可能性が高いというのはなかなか説得力があるように思います。
玄田氏も「多くの希望は、失望もしくは絶望を必然的に伴っている。」と言っています。しかし玄田氏は続けて「希望を持つという行為やそこから派生するプロセスが、希望を持たなかった場合に得られなかった、より高次の充足を実現する確率を高める」とも言っています。過大や夢や根拠のない有能感にもとづく「希望」は、当然ながら「求めれば求めるほど逃げていく」でしょう。それでも、それを「求めなければ、強い充実も得られない」のだから、やはりそれを持つべきだ、というのが玄田氏の主張なのでしょうか?だとすれば、どういうプロセスで「強い充実」につながるのか?あるいは、そうでないのだとすれば、どのような「希望」であれば「強い充実」につながりうるのか?(そしてそのプロセスは?)これを「社会科学していく」ことは、まことにチャレンジングな取り組みであるに違いありません。
また、玄田氏が紹介する「小学6年生の頃、約7割は将来なりたい希望の職業があったといいます。そのなかで、実際に希望の職業に就いたのは1割にも満たない。しかし一方で、過去にそんな希望する職業を持っていた人の方が、希望がなかった人よりも、結果的に「やりがい」のある仕事に就く確率は、はっきりと高くなっていた」というのは、たいへん興味深いものがあります。新著でこれが取り上げられているのであれば、ぜひ読んで勉強してみたいと思います。これが玄田氏のいう「希望がつねに失望を伴いながら、それでも希望が充実の源泉だというのは、希望に関する事実」だという断定の根拠なのでしょうか。
いたって直感的な感想ですが、「小学校6年生の頃に将来なりたい希望の職業があった人は、将来やりがいのある仕事につく確率が高い」としても、それでは「希望の職業のない小学校6年生に働きかけて希望の職業を決めさせれば、将来やりがいのある仕事に就く可能性が高まる」かどうかは疑わしいような気がします。私はどうしても企業の人事管理の類推で考えてしまうので、「入社時(でも入社5年めでも)に、1割以下しか実現しないような将来の希望を決めさせれば、将来やりがいのある仕事につく確率が高くなる」と云われてもなかなか納得しにくいのです。また、「希望の職業がある」ということ自体が、実はなにか別の、観測されない要素の反映である(潜在能力とか家庭環境とか階層とかの)可能性もありそうな気がします。もちろん、これらは高度な計量分析の技法によって検証されているのだろうとは思いますが。
さて、とりあえず現時点で私が思っていることを書きますと、「希望」が人生を充実させるとしたら、それは「小学校6年生の頃の将来なりたい希望の職業」といったものもさることながら、「将来について明るい見通しを持てる」ということが大切なのではないかという感覚を持っています。一昨日のコメントで紹介した、やはり東大社研(希望学のセンターになるらしい)の佐藤博樹氏の発言が当たっているのではないかと思うのです(ニート少子化では論点が全く違うと云われるかもしれませんが)。再掲しますと、

「やはり社会を信頼できるとか、安心できるとか、将来について明るい見通しを持てるかということではないのか。実は結婚するとか、子どもを持つということについて、それが一番大事なのではないかな。希望が持てる社会ということがやはり基本なんじゃないだろうか。貧しくても、将来が見通せれば、結婚し子どもを産むのですね。」
第18回ESRI−経済政策フォーラム「出生率の回復をめざして−スウェーデン等の事例と日本への含意−」(平成16年6月25日)の議事録から
http://www.esri.go.jp/jp/forum1/040625/gijiroku18.pdf、23頁)
 ※一昨日のコメントでこのフォーラムを「昨年秋」と書いたのは間違いでした。失礼しました。

変な言い方ですが、「希望は野望ではない」とでも言いましょうか。はなはだ月並みな言い草ですが、「明日は今日よりよくなると思える」という「希望」が大切なのではないかと思うのです。そういえば、先日紹介した大竹文雄氏の『日本の不平等』のなかで、「将来収入が増えるのが楽しみ」という理由で年功的な賃金が好まれている、という紹介がありましたが、これなどはまさに「希望が持てるから」ということなのではないでしょうか。
もちろん、そうなるとコトは個人の問題ではなく、社会の問題になります。佐藤氏もまっさきに「社会を信頼できる」ことをあげています。なにより社会が良くなっていく、経済が成長する、一人あたり所得が伸びる、といったことが大切でしょう。雇用政策や再分配政策のあり方も重要でしょう。過大な夢をあきらめたあとに、それでも将来に別の、分相応?な「希望」が持てる社会、ということでもあるでしょう。毎度毎度同じ話になりますが、「自分のことすべてに自分で責任を持てと言われても無理」というのにこれも通じるところがあって、「希望をもてない個人を念頭に」なにか特別な「希望」を持て(ば充実する)、といってもやはり限界があるのではないか。
まだ全然アタマが整理できていないのでメチャクチャな議論になっていますが、とにかくネット上に玄田氏の「ニートと希望のパラドクス」が残っているうちに紹介しておきたいと思って、大急ぎで書いてみました。資料も手元にない状態ですし、いろいろおかしなことや間違ったことを書いていると思います。ご指摘いただければ幸甚です。
いずれにしても、「希望学」には大いに注目していきたいと思います。豊かな成果を期待したいものです。