「感情労働」フォロー

こういうことを書くから怒られるんだろうと思うわけですが私は前々から「待機児童」という用語にかすかな違和感があり、つまり「待機児童」本人が主体的に保育施設に積極的に入りたいと思い、しかし入れないから待機しているのだという意識はあまりないんじゃないかと思うわけです。待機しているのは子どもを預けて働きたい保護者であり、であれば待機保護者というのがより実態に近い用語ではないでしょうか。もちろん(あわてて言い訳しますと)私は保護者が子どもを預けること(預けて働くことも含めて)に対してはまったく否定的ではなく、親が直接保育するのがあるべき姿などといった苔むした化石のような意見にはおよそ与するものではありませんし、就労と保育に関する保護者要望が実現することは概ね児童の福祉にも資するとも思いますのでまあ「待機児童」でよかろうと思っていますが。
そこでなぜこんなことを書いたかといいますと5月1日のエントリにhamachan先生からトラックバックをいただきましたのでフォロー記事を書こうと思ったからです。先生のご所論は特段育児・介護に特化したものではなく、これまでもくりかえし指摘されている「サービス産業全般について「スマイル0円」などと称して適切な価格が設定されてこなかったことがサービス産業の(数字上の)低生産性や賃金水準の低さの原因」というものです。ということでタイトルには「感情労働」としましたが内容は直接には感情労働とは関係ありません。
さてhamachan先生のご所論については私も大筋で同感するところなのですが若干のニュアンスの相違はあり、hamachan先生は「サービス業の生産性が低い」という指摘に対して企業が(製造業的な)コストダウンで生産性向上を意図する結果さらに生産性が下がると述べられますが、私としてはしかし消費者がそれを求める以上は企業としては致し方ないよねえとも思うわけです。でまあ価格競争にも限度はあるとなれば「スマイル0円」みたいなマージナルな部分で競争することになるという展開になるのでしょう。したがって繰り返しになりますがサービスの買い手の購買力を上げることが重要であり、特に生産性も高く外貨獲得力のある製造業の役割が大きいと考えられるにもかかわらずそれが空洞化するに任せてしまった失政こそがサービス産業の低賃金の元凶だろうと私は思っているわけです。サービス業と違って製造業は賃金を下げざるを得ない状況になればむしろ海外に流出するほうを選ぶわけで、だから国内に残った製造業はサービス業のようには賃金も生産性も下がらないという話になるわけです。
さてそれはそれとして、hamachan先生は日経の「企業参入や経営再編などの競争促進策が事業の革新につながるはずだ」との論調に対して、「いやだからその帰結が…なんでしょうけれど」と、ジャーナリストの小林美希氏の著書『ルポ保育崩壊』を紹介されています(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-cdcb.html)。

 時間内に食べ終えるのが至上命題の食事風景。燃え尽き症候群に襲われる保育士たちや親との会話も禁じられた“ヘルプ”(アルバイトや派遣)のスタッフたち。ひたすら利益追求に汲々とする企業立保育所の経営陣……。空前の保育士不足の中、知られざる厳しい現状を余すところなく描き出し、「保育の質」の低下に警鐘を鳴らす。

これについては正直そうなのかなあと思うところはあり、私としては繰り返しになりますが問題は企業参入や競争促進ではなくあくまで利用者の支払能力不足であってそこを混同するのはまずかろうと思っています。というのもhamachan先生は以前のエントリでこの本について詳細に紹介しておられ(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-69b6.html)るのですが、そこに「版元のHPに、小林さん自身のメッセージが載っていますので、ちょっと長めですが、ここに引用しておきます」とあって、次のメッセージを紹介しておられるわけです(中略部分はhamachan先生のブログにあるリンク先をご参照ください)。

 「ここに子どもを預けていて、大丈夫なのだろうか」
 待機児童が多い中で狭き門をくぐりぬけて保育所が決まっても、自分の子どもが通う保育所に不安を覚え、一安心とはいかない現実がある。
 それもそのはずだ。ふと保育の現場に目を向ければ、親と別れて泣いている子どもが放置され、あやしてももらえないでいる。…「背中ぺったん」「壁にぺったん」と、聞こえは可愛いが、まるで軍隊のように規律に従わされる子どもたち。
 いつしか、…子どもの表情は乏しくなっていく。その異変に気付いた親は、眉根を寄せて考えるしかない。特に母親ほど「この子のために、仕事を辞めた方がいいのではないか」と切迫した気持ちになる。…女性の場合は特に妊娠中からさまざまなハードルを乗り越えての就業継続となる。…やっとの思いで保育所が決まって復帰しても、安心できない。これでは、まるで「子どもが心配なら家で(母親が)みろ」と言わんばかりの環境ではないか。…
…このように保育の質が低下しているのは、待機児童の解消ばかりに目が向き、両輪であるはずの保育の質、その根幹となる保育士の労働条件が二の次、三の次となっているからだ。
 保育所で働いている保育士は、約40万人いる一方で、保育士の免許を持ちながら実際には保育士として働いていない「潜在保育士」は、約60万人にも上る。その多くは、仕事に対する賃金が見合わない、業務が多すぎることを理由に辞めている。
 特に、株式会社の参入は保育の質の低下を著しくしたのではないか。これまで保育の公共性の高さから社会福祉法人が民間保育を担ってきたが、2000年に株式会社の参入が解禁され、その影響は大きい。その直後に発足した小泉純一郎政権は、雇用だけでなく保育の規制緩和も次々と推し進めていたのだ。そのことで、現在の親世代の雇用は崩壊し、生まれた子どもたちの保育は崩壊しつつあるという、親子で危機的な状況にさらされている現状がある。国の未来を左右する子どもの保育の予算は、国家予算のなかで国と地方を合わせてもたった0.5%ほどしかない。
 2015年度から、…政府は特に「認定こども園」を推進するが、本当に利用者や働く側に立った制度なのか。
 どの保育所であっても、教育を受けて現場でも経験を積み、プロとしての保育を実践できなければ、運・不運で親子の一生が左右されかねない。その状況を変えるためにも、今、保育所で起こっている問題を直視し、周囲の大人に何ができるかを考えたい。…

この文章から見えてくる政策の方向性は、「保育の公共性の高さから」民間保育を(社会福祉法人に限定するなど)強く規制し、主たる担い手は自治体などに委ねて、保育士の労働条件を改善して保育の質を向上させ、支払能力の如何にかかわらず(典型的には無料で)誰もが安心して利用できるようにしよう、というものだろうと思います。もちろんこれ自体は現実にそれに近い政策を採用している国もあるようであり、十分にありうる政策アイデアだろうと思います。
というか、おそらくはわが国でもある時期まではそれに近い現実があったのかもしれません。もちろん家庭での保育に大きく依存していたから可能だった話ではあるわけですが、しかしそれなりの品質の保育サービスがおおむねアフォーダブルな代金で一応十分に供給されていた(そしてスタッフの労働条件もそれなりに良好であった)時期というのはあったのではないかと思います(いやもちろん理想をいえばきりはないわけで、だからそれなりにとか一応はとか書いているところをご了解願えればありがたい)。
ただその質と価格が確保できていたのは一応(はい一応ね)潤沢に公的な資金が投入されていたからであり、需要が増加するにしたがってこれ以上おカネを注ぎ込めませんという話になったのが待機児童が発生した大きな原因のひとつでしょう。そこで、運よく公立の保育園に入れれば一定の充実した保育を享受でき、就労も可能になるのに対して、運悪く待機児童となると就労が難しくなり、あるいはより高価で質も比較的高くないサービスを利用せざるを得ない、まさに「運・不運で親子の一生が左右されかねない」状況になったわけです。
そこで待機児童の解消が重要な政策課題となったわけですが、残念ながらでは公的支出を比例的に増加させて対応しましょうという話にはなりませんでした。当時の議論を振り返ってみると、当時の保育施設のサービスに対しては投下されている公費の金額から考えて十分でない、すなわち経営感覚に乏しい自治体や社会福祉法人による運営は放漫・高コストに陥りがちであるという論調のほうがむしろ多数派であり、またそう指摘されても致し方のないような実態も多々みられたと申し上げざるを得ないようにも思われたわけです。そこで公的保育に対しても効率化が求められるとともに、営利企業のコスト管理を活用すべく株式会社の参入を認めるという話になったと記憶しています。もちろん公費の投入も当然ながら増えるわけで、それを納税者に納得させるためにはこうした施策が必要だったということでしょう。
要するに待機児童の解消は大事だけれど負担増なしでやれというのが当時の国民の選択だったわけであり、それは結局のところ利用者の負担も含めて投入される費用に応じたサービス水準や労働条件にならざるを得なかったのも致し方のないところだった、というかそれも含めて国民の選択だったというしかないのでしょう。これは民主党政権においても「ムダづかいをやめさせれば財源はいくらでもあります」というレベルで同一の話であり、もちろん子ども手当など支払能力を高める施策があったことは高く評価しますが、しかしその財源については「負担増はありません」というのが国民の選択だったことに変わりはないでしょう。
結局のところ保育の質を上げるにも保育士の労働条件を上げるにも経営形態の如何を問わずそれなりのコストがかかるのであり、それをどのように負担するのかが最大の問題でしょう。もちろん「公共性の高さ」も「国の未来を左右する」もそのとおりであり、出産・育児に外部経済があることもまず異論はないところでしょうから、一定の公的な助成を行うことには十分な理由があると思いますし「たった0.5%ほど」はもっと高くていいと私も個人的には思いますが、しかし直接には受益しない人に負担を求めるわけですからそれなりに説得力のある説明が必要でしょう。「利用者や働く側」の立場からは公的な助成をジャンジャン入れてくれという話になるわけでしょうが、利用しない人にしてみれば、まあ必要性はわかるから一定の負担は容認するとしてもできるだけ効率的にやってほしいと思うのも自然であり、したがって一定程度の応益負担を求め、かつコストダウンも求めるということになるわけで、その結果が現状だということではないでしょうか。でまあこうした中ではまさに小林氏も指摘するように「自分の支払能力ではこのレベルのサービスしか得られないなら仕事をやめて自分で育児をするしかない」という話になっているわけであり、「自分で育児」という無償労働との競争になることで保育士の労働条件も上がりにくいというあまり良好でない一種の均衡に落ち着いてしまっているということでしょうか。
そう考えると繰り返しになりますがやはり支払能力を上げて「自分で育児」になる料金を上げることが保育士の労働条件を上げる上でも重要という話になるわけですが、しかしまあ支払能力の比較的高くない人ほど就労へのニーズが高く、したがって保育のニーズも高くなるということを考えれば限界もあるでしょう。となると並行して育児支援の拡大に向けた政策変更が求められるわけですが、そのときに育児支援は重要であり「利用者や働く側に立った制度」であるべきといったような自分(たち)の価値観だけに依拠してたとえば景気動向にもおかまいなしに消費増税などの大衆負担による財源拡大を唱えるのでは、一部の人からはまあある意味での(かぎカッコ付きの)「クローニー・キャピタリズム」と言われかねません。なにより民主主義の中での多数派工作こそが重要だということだろうと思います。
したがって株式会社を悪者にしてもあまり意味はないのであり、むしろ使えるものは上手に使うほうが得策ではないでしょうか。規制緩和以前にしても結局のところは社会福祉法人等でなければ補助金が出ないという形で排除していたに過ぎないのであり、そうした中でも(こういう極端な・少数例をあげるとまた怒られるかもしれませんが)波多野ファミリスクールのように財団法人(現在は一般財団法人)形態をとりながら価格に見合ったサービスとブランド価値を提供することで補助金を受けなくても長年にわたり成功してきた例もあるわけです(まあ対象年齢が違いますしこのあたりまで来るとカネさえ出せば入れるというものでもないのでしょうから比較はできないでしょうが)。規制緩和後においても、まあ私は実際に見たわけではないので風評ではありますが、株式会社ピノーコーポレーションが運営するピノキオ幼児舎などは世間水準の数倍(PRではリーズナブルな料金と称しているようですが、まあ利用者がそう考えているならそうなのでしょう)の料金ながらそれに見合ったサービスを提供することで順調に業容を拡大し、かつ従業員に安定した労働条件を提供していると聞きます。まあ大半の株式会社は「ひたすら利益追求に汲々と」している(まあそれが当たり前だ)のかもしれませんが、しかしそれを排除してみたところでそれが提供していたサービスが失われるにすぎず、それに代わって魔法のようにより安価でより良質なサービスが出現するなどということはありえないでしょう。保育の質も労働条件も最たる原因は「0.5%」であって株式会社ではないはずです。
要するに育児支援の拡大策は「利用者や働く側」だけでなく事業者にとっても大いに歓迎されるものであり、かつ収益に責任のある株式会社にとってこそ(差別的な扱いがされないかぎり)切実に求められるものだという当たり前の話であり、育児支援拡大に向けて多数派工作という相当に難儀な仕事をしようというときに仲間になってくれそうな人たちを敵に回してどうするんですかといういたって実利の話になるわけです。いや実際問題これまでの経緯を思えばいかに育児支援が重要かと言っても国民の多数の理解を得られるかどうかは、おそらく育児支援に携わってきた人たちこそ身を持って承知しているのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。雇用の規制緩和を実施した政権の政策だからとかいった狭量な話にこだわって共通の利益を見失うのもつまらない話に思えるのですが、しかしあれかな、やはり節を曲げられない人もいるのかな。世の中私のような無節操な人ばかりではないのかもしれません。