「いつか来た道」というけれど

28日の「経済教室」では、日経センターの短期経済予測を竹内淳一郎主任研究員が解説していました。お題は「リスク抱えた緩やか回復」で、主要部分である今後の見通しについては私にはコメントする能力がありません。ただ、最後のほうで労働市場に言及している部分については、これはちょっと、という感じです。

 前回(本欄2月23日付)の経済予測で、今後の景気展開は、先の「いざなぎ超え」景気(「出島景気」)と同様、輸出主導、大企業・製造業中心で、家計や中小企業は「置いてきぼり」状況が続くことを強調し、「デジャブ(既視感)景気」と呼称した。恐らくは今次好景気の終焉も海外発のショックが原因となるであろう。

 労働市場を眺めても「いつか来た道」である。企業は人件費の抑制や変動費化の方針を崩していない。雇用面では、内部労働の活用(時間外や休業者の職場復帰)が優先され、外部への労働需要は派生しにくい。わずかな需要も主にパートに向かう。派遣労働規制を強化しても、非正規雇用比率は低下しまい。賃金面では、雇用の維持を労使が優先し、賃上げ不発の展開が続く。業績が改善しても、企業は賞与で還元するにとどめるため、労働分配率は再び低下することになろう。
 では、この繰り返しゲームの悪循環のどこを修正していくか。あまたある中で、前回は消費税率引き上げの必要性に言及した。今回は、新卒採用の拡大とワークシェアリングを取り上げたい。
 今春の新卒採用市場も「狭き門」で、少なからず学生は就職活動を続けている。新卒市場へのしわ寄せもおなじみの現象だ。わが国は「失われた10年」の期間に、「就職氷河期」世代の人的資本の蓄積に失敗した。当該世代は、景気好転後も正社員への道が閉ざされたケースが多い。
 もちろん、企業にも言い分はあろう。指名解雇が原則禁止され、年功序列賃金もほぼ維持される中、企業は新卒採用に二の足を踏む。年金支給開始までの高齢者雇用確保も求められている。
 正社員はどうか。有給休暇の取得率は5割以下と国際的にみて低く、長時間労働者も増加している。一息ついて、労使が意識改革し、将来の福祉の担い手となる若者に働く場を提供することを考えてはどうか。
 旗振り役が期待される政府の対応をみると、どうもちぐはぐな印象を受ける。11年度の公務員採用は「肩たたき」の廃止に伴い4割減となる。
 単純な新卒採用の拡大は、既存正社員の総所得低下を招く。ただ、余暇や休暇の増加を享受でき、同時に政府にとっては無コストの景気対策にもなり得る。「小さなことからコツコツと」ではないが、もはや大きなことをする財政余力はない。すべてに共通するが、できない理由をあげるのではなく、どうすればできるかを考えるべきだ。
(平成22年5月28日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から)
http://www.nikkei.com/paper/article/g=96959996889DE2EAE0E0E5EBE5E2E0E5E2E7E0E2E3E29997EAE2E2E2;b=20100528

まあ、結論が「できない理由をあげるのではなく、どうすればできるかを考えるべきだ。」というのを見ただけでもこりゃダメだ、という感じがひしひしと漂ってきますよねぇ。言わずと知れたダメ上司の常套句。「では、どうすればいいのか指導してください」「それは自分たちで考えろ」…まあ、わかっているけれど育成のために敢えて教えずに自分で考えさせる、というならいいのですが、実は自分にもわからない、というダメ上司が往々にしているわけで。竹内氏は、さてどちらでしょうか。私にはなんとなく後者のように思えますが、まあ根拠のない言いがかりではありますが…。
さて最初に戻りまして、今回の景気回復期も前回と同様の「いつか来た道」をたどるだろう、という見通し自体には私も反対するわけではありません。まあそうなるんだろうな、という感覚はあります。
ただ、竹内氏はこれを「悪循環」と呼んでいますから、「いつか来た道」をたどるのは悪いことだ、とお考えのようです。そうでしょうか。
まず、「企業は人件費の抑制や変動費化の方針を崩していない。雇用面では、内部労働の活用(時間外や休業者の職場復帰)が優先され、外部への労働需要は派生しにくい。わずかな需要も主にパートに向かう。派遣労働規制を強化しても、非正規雇用比率は低下しまい。賃金面では、雇用の維持を労使が優先し、賃上げ不発の展開が続く。」ということですが、私も当面はそういう展開にならざるを得ないだろうと思います。ただ、景気回復がある程度の幅と期間に及べば(まあ、前回の経験からすれば幅が重要なのでしょうが)、いずれは正規雇用も増加し、賃金も上がっていく局面に入るはずです。このブログでは、前回の景気拡大期には「そうした局面に入るまでなんとか景気拡大が続いてほしい」と繰り返し祈って(笑)おり、実際ある時期には非正規から正規への登用が拡大し始める気配もありました。しかし、残念ながらそこにサブプライムリーマン・ショックという「海外発のショック」が起きてしまったわけです。
今回も、たしかに正規雇用が増え、賃金が上がる局面に入る前に「海外発のショック」が起こり、これまた「いつか来た道」に逆戻り、という可能性はたしかにあるでしょう。企業としては次なるショックに耐えうるような一段の経営体質強化に取り組む必要があるでしょうし、「人件費の抑制や変動費化」はそのためにも必要でしょう。もちろん、適切な経済・金融政策が求められることも言うまでもなく、適切なタイミング・幅での消費税率の引き上げもそれに含まれましょう。官民が最善の努力によって長期・大幅な景気拡大を実現し、正規雇用の増加やベースアップの拡大のステージにまで達すれば、その後は「人件費の増加が企業収益を圧迫して業績低下につながる」という、それこそ前々回まで循環的に繰り返されてきた「いつか来た道」をたどることになるでしょう*1
なお、「業績が改善しても、企業は賞与で還元するにとどめるため、労働分配率は再び低下することになろう。」というのは若干不思議な感じのする議論です。竹内氏は労働分配率の低下にご不満なようですが、景気拡大期に業績が改善する中で労働分配率が低下するのは、景気後退期に労働分配率が上昇するのと裏腹のごく当たり前の話で、これは労働者の収入の安定に寄与しています。また、賃上げであれ賞与であれ、おカネに色がついているわけではありませんから、同額の還元であれば労働分配率への影響も同じであるはずです。賞与で還元するから賃上げで還元するのに較べて労働分配率がより大きく低下する(とこの文章は読めるのですが)ということはないでしょう。むしろ、賞与の方が業績変動に対する弾力性が高いですから、賃上げより賞与で大いに還元したほうが当座の労働分配率は高くなるはずです。
さて、続く新卒採用のくだりでは「今春の新卒採用市場も「狭き門」で、少なからず学生は就職活動を続けている。新卒市場へのしわ寄せもおなじみの現象だ」と書いておられますが、しかし前回の景気回復期の「いつか来た道」では新卒採用は売り手市場になっておりました。もちろん、景気回復の初期で、まだ企業内に「休業者」のような余裕人員がある状況においては、企業は「人件費の抑制」の観点も含めて、育成コストがかかり定着の悪い新卒採用を増やすよりは、すでに一定の能力を有していて即戦力となる「休業者」のような余裕人員の活用を先に考えるのは当然のことです。で、余裕人員が解消されれば次は新卒採用に向かい、さらに要員ニーズが高まれば、無理に採用基準を下げて新卒を追加的に採るよりは、一定のスキルを持っている非正規労働者を正規に登用するわけで、これが現実に前回の景気回復期に起きた、竹内氏のいわゆる「いつか来た道」ということになります。つまり、「いつか来た道」をたどるのであれば、今後の新卒者についてはそれほど心配ないと考えることもできるでしょう。
もちろん、前回のバブル崩壊金融危機にともなう雇用調整期は非常に長くなったため、「景気好転後も」年長フリーターとなってしまい「正社員への道が閉ざされたケース」が発生しました。今回もその危険性はたしかにありますが、しかし今回の雇用調整期は前回に較べると比較的短くすむ可能性が高く、であれば昨年、今年に就職活動を行った人も比較的近い将来に労働需要の増加と比較的良好な就職機会に恵まれることが期待できそうです。ここでも、なにより大切なのは景気回復をより力強く、できるだけ長期にわたらせることであるといえます。
続けて竹内氏は「企業側にも言い分はあろう」として「指名解雇が原則禁止され、年功序列賃金もほぼ維持される中、企業は新卒採用に二の足を踏む。」と企業の心情を慮っていますが、竹内氏の脳内ではそうだとしても、実際のところが本当にそうかは微妙なところです。もちろん、正社員の雇用調整はたしかに容易ではありませんから、景気後退期や、まだ景気の先行きが不透明な景気回復の初期には、正社員よりは雇用調整の容易な非正規労働をまずは採用したいという「企業側の言い分」はたしかにあるでしょう。しかし「新卒採用に二の足を踏」んでいるかといえば、さっきも書いたようにサブプライムの前までは企業の新卒採用意欲は旺盛だったわけですから、現実の企業の心情は竹内氏が脳内で妄想するそれとは若干異なっているようです。いっぽう、「年金支給開始までの高齢者雇用確保も求められている。」というのはそのとおりで、企業にしてみれば定年後再雇用で賃金水準を下げることが可能ですから、であれば未熟練で訓練コストのかかる新卒者(や低熟練者一般)を採用するよりは、長年の技能の蓄積のある定年到達者を再雇用しようとするのは当然のことで、これが若年雇用を一種クラウディング・アウトする可能性は高いでしょう。
もちろん、若年者に良好な雇用機会を準備することの重要性は論じるまでもなく、そのためにワークシェアリングが有効であれば大いに検討すべきでありましょう。ただ、「有給休暇の取得率は5割以下と国際的にみて低く、長時間労働者も増加している。一息ついて、労使が意識改革」すればそれが可能になるというのはいかにも安易な発想でしょう。まあ、竹内氏としてみれは、具体論を示すのは自分の仕事ではない、「できない理由をあげるのではなく、(お前らが)どうすればできるかを考えるべきだ。」と指導するのが自分の仕事なのだとお考えなのでしょうが。
まあ、たしかに年次有給休暇を完全取得し、長時間労働をやめれば、工数の計算上はかなりの雇用が増えることになるでしょう。とはいえ、年次有給休暇の取得増はそのままコスト増です*2し、長時間労働を新規雇用に置き換えるのも固定費を考えればコスト増となるでしょう。竹内氏のいうように、これが全体の賃金水準で調整されるとなれば(されざるを得ないでしょうが)、たしかに「既存正社員の総所得低下を招く」ことになります(同時に既存非正社員の総所得低下、場合によっては雇止めによる総所得の焼失も招くでしょうが、なぜか竹内氏は既存正社員のことだけを述べておられますが…)し、そもそも長時間労働をやめるということはその分の残業代を失うわけですから、どうにも所得の低下は避けられません。それでも、失業者に対する社会的費用が減少する分はマクロ経済にはプラスになるのかもしれません。
ただ、「余暇や休暇の増加を享受でき、同時に政府にとっては無コストの景気対策にもなり得る」というのは若干疑問もあり、もちろん新たに雇用された新卒者は消費を増やすでしょうから景気にプラスの影響を及ぼすでしょうが、「既存正社員」についてはたしかに「余暇や休暇の増加を享受でき」るかもしれませんが、同時に「総所得低下」に見舞われるわけで、余暇や休暇が増えたからといって気前よく温泉旅行に行ったりするかどうかは疑わしいでしょう。むしろ、「図書館で本を借りて読む」といったカネのかからない形で享受することが多くなるかもしれません。となると、「無コストの景気対策」としてはどれほどの効果があるものか…。
まあ、竹内氏はこれらも含めて「できない理由をあげるのではなく、どうすればできるかを考えるべきだ」と言っておられるのでしょう。私はそんなことを考えることに労力を費やすよりは、企業が業績拡大に努力すること、政府がそれに対して適切な政策を講じることに労力を費やしたほうがいいのではないかと思いますが。

  • 為念申し上げておきますが、私は年次有給休暇の取得促進も長時間労働の抑制も必要かつ重要であると考えており、それが不要だというつもりは一切ありません。それが若年雇用対策や景気対策としてまったく効果がないというつもりもありません。私が申し上げたいのは、竹内氏の主張するような過度の期待を持つべきではない、ということです。

*1:これはかなり無理な議論でしょうが、前回の景気回復期には人件費の上昇を抑制したことが景気拡大の長期化につながったという考え方も不可能ではないかもしれません。

*2:法律で保証された権利なのだから完全取得が当然でそのコストは使用者が負うべきとの建前論はもちろん正論ですが、いっぽうで「この取得率だからこの賃金水準が実現している」というのが現実であることも間違いないわけです。