現場からみた労働政策(6)最低賃金

「労基旬報」弟1419号(平成21年9月5日号)に寄稿した連載「現場からみた労働政策(6)」を転載します。最低賃金に関するもので、「この7月」は昨年の7月です。

 この7月、中央最低賃金審議会「目安に関する小委員会」が、2009年度地域別最低賃金改定の目安について、生活保護水準との乖離額がない35県については現行水準の維持を基本とするという結論を示しました。一方、乖離のある12件については、その段階的な縮小を念頭に2円〜30円の引き上げを目安としました。これにより、全国平均は7円〜9円の引き上げとなると見込まれています。
 昨年7月1日から最低賃金法が改正され、地域別最低賃金を決定する場合には、生活保護との整合性にも配慮することとされました。従来、最低賃金生活保護の水準を下回る「逆転現象」が多くの都道府県で見られたため、より就労を促進するという観点から両者の整合性に配慮するとされたものです。それまでは最低賃金の改定は一桁が続いていましたが、2007年にはこの法改正の趣旨を踏まえて前倒しで検討が行われ、全国加重平均で14円、改正法が施行された2008年には同じく16円と、2年連続で大幅な引き上げが行われてきました。なおこの間、2008年6月には政府の「成長力底上げ戦略推進円卓会議」において、参加した有識者、労働界・産業界の代表者及び政府関係者が最低賃金について「賃金の底上げを図る趣旨から、社会経済情勢を考慮しつつ、生活保護基準との整合性、小規模事業所の高卒初任給の最も低位の水準との均衡を勘案して、これを当面5年間程度で引き上げることを目指し、政労使が一体となって取り組む」ことを合意しています。もっともこれには法的拘束力はなく、特に「小規模事業所の高卒初任給の最も低位の水準」は特定が困難なことから、理念的な意義をこえるものではなさそうです。とはいえ、2009年度の目安が現下の経済・企業・雇用動向等を踏まえてこうした内容となったことは、この合意の考え方にも沿っているといえるでしょう。
 さて、本稿が掲載されるころには総選挙も終わり、新政権が発足しているものと思われますが、政権奪取が濃厚といわれている民主党は、その「マニフェスト」で最低賃金の引き上げを掲げています。具体的には「最低賃金の原則を「労働者とその家族を支える生計費」とする」「全ての労働者に適用される「全国最低賃金」を設定(800円を想定) する」「景気状況に配慮しつつ、最低賃金の全国平均1000円を目指す」というものです。
 「最低賃金の原則」については、現行の最低賃金法第3条は「最低賃金は、労働者の生計費、類似の労働者の賃金及び通常の事業の賃金支払能力を考慮して定められなければならない」と定めています。これは、最低賃金法の目的が法第1条にあるとおり「賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もつて、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与すること」であることをふまえています。つまり、最低賃金法はごく限られた例外を除き、ほとんどすべての「賃金の低廉な労働者」を対象としており、その中には家計に別途十分な収入があり、補助的に就労している労働者、たとえばいわゆる「主婦パート」や「学生アルバイト」などが相当割合含まれていることに対応しているわけです。
 一方、生活保護については、その目的が「生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長する」(生活保護法第1条)こととされており、したがってその水準も「この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」(法第3条)と、生計費のみを基準としているわけです。ですから、生活保護最低賃金が逆転していること自体は、双方の法の趣旨や対象者の違いを考慮すれば必ずしもおかしいというわけではなく、その整合性・均衡を考慮するのは「就労促進」という政策目的のためと考えるべきでしょう。
 そこで民主党マニフェストですが、現行の原則を「労働者とその家族を支える生計費」に変更しようということです。これは単身者であっても、いわゆる「主婦パート」であっても「労働者とその家族を支える生計費」の水準を保障しようということでしょうから、現行法の目的は逸脱していると考えざるを得ません。もっとも、民主党マニフェストでは最低賃金について「まじめに働いている人が生計を立てられるようにし、ワーキングプアからの脱却を支援する」という政策目的を掲げていますので、最低賃金法の目的も変更しようということなのでしょう。
 もっとも、具体的な水準は当面一律800円、将来的に平均1,000円ということですので、「労働者とその家族を支える生計費」という文言から受けるイメージに較べると控えめな水準という印象もあります。とはいえ、現行最低賃金は平均703円、これを800円にすると約14%の引き上げですから、現状に較べれば相当高いことも事実なので、その与える影響については慎重に考慮する必要があるでしょう。
 少し古いデータですが、堀春彦・坂口尚文(2005)「日本における最低賃金の経済分析」(労働政策研究・研修機構労働政策研究報告書No.44)に、2003年の「賃金構造基本統計調査」による都道府県別の賃金の分布状況が掲載されています。それによると、パートタイマーで時給が最低賃金+15%未満の人は全体の約28%、同じく一般労働者では2.5%となっています。これを参考にすると、影響を受ける人はパートタイマーで二十数%、一般労働者で2%強ということになりそうです。
 この人たちの時給が800円になり、その分企業の利益が減ってそれで終わり、ということになればいいのでしょうが、そうもいかないでしょう。足元の厳しい経済環境も考慮すればなおさらです。賃金の引き上げ幅が小さい人はまだしも、数十円といった大幅な引き上げが必要となる人については現在の雇用契約の期間が終了したら雇い止めし、その分の仕事は他の人の残業でカバーする、といったことが起きる可能性は高そうです。仕事によっては、時給750円ならパートタイマーで対応するが、時給800円なら自動機を導入したほうが効率的、という可能性もあります。あるいは、内製をやめて安価な輸入品で代替したり、規模によっては海外投資して海外生産に切り替えるといったことも起こりかねません。時給800円ならまだしも、1,000円となったらこうしたことが現実に起こる可能性もかなり高まるでしょう。
 最低賃金が雇用量に及ぼす影響については諸説ありますが、現実問題としては雇用が減り、失業者が増えるという弊害がありうることは十分考慮する必要があるでしょう。ワーキングプアが減ってもその分失業者が増えたのでは意味がありません。
 もちろん、多少の弊害は避けられないとしても最低賃金は必要かつ重要ですし、その水準が向上することも間違いなく望ましいことです。しかし、それを生産性や付加価値の裏付けなしに、制度的に直接実施しようとすると、多くの弊害が出る危険性が高いと思われます。生産性や付加価値の向上をはかることでおのずと賃金水準も上がり、最低賃金の引き上げも可能となるというのが望ましい順序ではないでしょうか。