ティン・パラシュート

解雇権濫用法理に関連して、lenzabileさんから買収防衛策との関係で興味深いトラックバックをいただきました(コメントも頂戴しておりました。ご回答が遅くなり申し訳ありません)。ここで回答させていただきます。
まず、引用します。

…買収防衛策を積極的に肯定する立場の論拠のひとつとして、「信頼の裏切り仮説」というのがあります。これは、簡単に言いますと、

会社は長期雇用(将来的な昇給も含む)を暗黙に約束→従業員は会社のために企業特殊的熟練を蓄積する→敵対的買収で株主となった者がそんなこと顧みず解雇→信頼裏切られた!→信頼を裏切られる可能性があるとすると企業特殊的熟練を積もうという人はいなくなる

 ということで、そのような事態を防ぐために取締役に買収防衛策の発動権を与えて、信頼を裏切るような買収から従業員を守らせるという議論です。
 この仮説を根拠とする防衛策の導入に反対する立場からすると、従業員の長期的コミットの保護については、解雇権濫用法理(使用者側が解雇権を濫用した場合には解雇を無効とする判例によって蓄積され法律にも盛り込まれた法理です)で保護すべきであって、取締役が保身のために濫用するかもしれない買収防衛策によって保護する問題ではないということになります。
 で、上記の労務屋さんのお話からすると、企業特殊的熟練の蓄積に励んだ従業員の期待の保護は解雇権濫用法理による保護で十分という感覚を労務実務の方々はお持ちなんだろうかと思った次第。
http://lenzabile.blog115.fc2.com/blog-entry-19.html

lenzabileさんは米国在住でM&Aファイナンスがご専門の弁護士さんとのことです。「信頼の裏切り」というのはbreach of trustを日本語訳されたのでしょう。これはたとえば、組立メーカーが部品メーカーに対してある程度長期的に発注を行うことを前提に部品メーカーが設備投資を行うようなケースが想定されます。敵対的買収にともなって部品メーカーへの発注がストップしてしまう危険性がある程度高くなると、こうした設備投資が行われなくなり、結果として生産性の低下を招くおそれがあるわけです。逆にいえば、日経新聞がお得意の表現でいえばこうした「しがらみを断つ」ためには敵対的買収は有効だ、といった話にもなるわけではありますが。雇用関係、人材育成投資においても同様な想定が可能です。
そこで頂戴したコメントでは「敵対的買収が成功した場合に、企業特殊的熟練の蓄積に励んだ従業員が信頼を裏切られる形で(買収者のリターンを高めるために)解雇されてしまうことがあるのか、あるとしてそれは解雇権濫用法理では対抗できないのかが問題意識です」とのことです。
前半部分については、そもそも日本では敵対的買収の成功事例自体が少ないのでなんともいえないのですが、とりあえずこれまでの事例で大規模な解雇が行われたという報道等は見たことがありません。まあ、実際のところはどうなのかわかりませんが…。で、後半部分については、基本的に株主や経営陣が誰になろうと雇用契約は存続するわけですから、解雇権濫用法理で対抗できることは間違いなさそうです。というか、前述と同様の理屈で、日本で敵対的買収が増えないのは解雇が不自由なせいだから解雇規制を緩和せよ、という議論もあるわけで。いっぽう、友好的買収であっても、経営危機にある企業を救済的に買収したようなケースにおいては、整理解雇までは少ないとしても、希望退職や労働条件の切り下げなどが行われたケースは目にしたような気がします。とはいえ、日本では日本電産などのように買収後も雇用を維持しながら再建を進めていくというケースが多いのではないかと思います。ウラをとったわけではないので印象論ではありますが…。
そこで雇用におけるbreach of trustが買収防衛策導入の根拠となりうるかといえば、私はなりうるのではないかと思います。実際、敵対的買収に対して仕掛けられた企業の労組が反対するというケースも間々みられるように、従業員のbreach of trustに対する警戒心はかなり強いものがあります。いかに解雇権濫用法理があるとはいえ、それを承知の上で新経営陣が整理解雇を行う可能性は否定できません。企業が強硬な姿勢をとれば、結局は訴訟によって救済されるしかなくなり、それには多大な時間と労力を要するでしょう。解雇権濫用法理がある中においても、たとえばティン・パラシュート(敵対的買収にともなう解雇に対して高額の退職金を設定する)のような合目的的な買収防衛策の導入は考えられてもよいのではないでしょうか。もちろん、「取締役が保身のために濫用するかもしれない」といった問題もあるでしょうから、全体のバランスの問題ではあるでしょうが。