大盛希望無料

もう一日だけ引っぱらせてもらって(笑)、きのうまでのエントリのフォローで男女共同参画会議の「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)に関する専門調査会」が検討している「達成度指標」をみてみたいと思います。こちらは10月1日の第8回会合の資料として「ワーク・ライフ・バランス社会の実現度指標の考え方(案)」「ワーク・ライフ・バランス社会の実現度指標の全体像(案)」「ワーク・ライフ・バランス社会の実現度指標の体系図(案)」が提出されています。
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/wlb/siryo/wlb08-1.pdf
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/wlb/siryo/wlb08-2.pdf
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/wlb/siryo/wlb08-3.pdf
で、「考え方」をみると、『ワーク・ライフ・バランスとは、「老若男女誰もが、仕事、家庭生活、地域生活、個人の自己啓発など、様々な活動について、自ら希望するバランスで展開できる状態」と定義する。』となっています。この定義自体はすでにこの5月に出された「「ワーク・ライフ・バランス」推進の基本的方向中間報告」(http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/wlb/wlb19-2.pdf)の定義を踏襲したものですが、ここで「自ら希望する」となっているせいか、この「考え方」を読み進めると、妙に「希望」という単語が目について気になります。人事管理の実務をやっていると、「個別人事においては希望は尊重するものの、さはさりながら希望どおりにはならないのが当然」という常識が染み付いてしまっておりますので(笑)
この「考え方」は2,600字程度の比較的短い文書なのですが、この中に「希望」という語が実に20回出てきます。実は5月の「中間報告」にも同様の傾向があり、こちらは本文約18,000字の中で「希望」は39回出てきます。もとはというと、専門調査会が議論の材料として使ったアンケート調査などが、選択肢などのキーワードとして「希望する」を多用しているところが出発点になっているようです。
もちろん、「誰もが希望するバランスで展開できる」というのはひとつの理想像にすぎず、現実には不可能なことは明らかなわけですが、それでもその理想に向かって前進することは大切だということで、だからこそ「達成度指標」を掲げて取り組もう、ということになるわけでしょう。実際、「考え方」を読んでも、「我が国の社会全体でみたワーク・ライフ・バランスの実現の状況」とか「個人の総体としての社会全体」といった表現が多用されており、あくまで「社会全体」「個人の総体」に対する政策指標であって、個人一人ひとりにまで必ずそれを約束するものではないという姿勢が感じられます。
とはいえ、いったんオーソライズされて世に出てしまえば、自分自身がそのとおりにならなければ納得できないというのが人間の感情というものでしょうから、理想をあまりに強調しすぎると、かえって「話が違う」「おかしい」という不満を拡大させることになりかねないのではないかと懸念します。
たとえば、別紙として具体論として「個人の総体でみた実現指標の5分野毎の考え方」が添付されていますが、その最初の「仕事・働き方」をみるとこんなことが書かれています。

 仕事が仕事以外の活動の充実を妨げず、人生の段階に応じた柔軟かつ過重な負担とならない多様な働き方を個人が実現しているか。
 なお、柔軟かつ過重な負担とならない多様な働き方を選択できることがワーク・ライフ・バランスの実現に資するとの基本的な認識を持ちつつ、待遇面で不利な扱いを受けたり、また、経済的な安定性が損なわれないかという観点も考慮する。

文章としてはそういうことなのでしょうが、しかし、現実には「待遇面で不利な扱いを受けたり、また、経済的な安定性が損なわれないかという観点も考慮する」という文面をみたら、「柔軟な働き方をしても昇進が遅れることはない」とか「柔軟な働き方をして、今と同様かそれ以上の経済的に豊かな生活ができる」とかいった受け止めをする人のほうが多いくらいかもしれません。もちろん、実際には柔軟な働き方を選択したことで企業業績に対する貢献が低下すれば昇進は遅れるでしょうし、柔軟な働き方を選択したことで残業が減れば残業代も減少するでしょう。しかし、そうした事情とはおかまいなしに、昇進が遅れれば「不利な扱いを受けた」、経済的な豊かさが後退すれば「経済的な安定性が損なわれた」と感じるのもまた人情というものでしょう。
そういう意味で、「希望」ということばは政策文書では安易に用いないほうがいいのではないでしょうか。この続きをみても、「希望する働き方を実現する機会は設けられているか」は、一応「機会」なのでまだしもとしても(実現しない以上は機会はないのだ、という人もいるでしょうが)、「個人が人生の段階における希望に応じて、例えば時間や場所の観点から柔軟に働き方を選択できているか」や「女性や高齢者等も含めた多様な主体が希望に応じて働けているか」はかなり危なっかしい。特に、前者には(例によって)「それらの選択肢の待遇面での公平性は保たれているか」とごていねいに付け加えられているので、処遇も希望どおりでなければ「政府は約束を果たしていない、ゼロ点である」ということになりかねないような気がします。
あるいは、続く「家庭生活」についても、「子育てや介護など家庭の事情に応じて、男女が希望する形で充実した家庭生活を送れているか」と書いていますが、そもそも夫婦それぞれの「希望した形で充実した家庭生活」が同一であるという保証はどこにもない、というか、もともとは他人の夫婦の思惑は異なっているというのが普通なような気がしますが、それはどうするのでしょう。犬も喰わない夫婦げんかを政府が収めるというのもご苦労な話です。さらに、「地域活動」で「自ら希望するバランスで、地域活動や近所とのつきあい・交流等ができる時間を確保できているか」とくると、そんな煩わしいものはないのが一番だ、という人も(本音ベースでは)かなりいるのではないでしょうか。まあ、だからこそ「『希望する人が』地域活動等に参加できているか」と書いてあるではないか、といわれればそのとおりですが…。
結局のところ、最初のほうに書いてあるように「個人の希望や事情によってワークとライフのバランスの形は多様であり、自ら希望するバランスを決められるもの」だと本当に思っているのなら、そのあとにゾロゾロと「育児・家事をしましょう」「地域活動をしましょう」「自己啓発をしましょう」などと書き並べるのは多分に余計なお世話だろうと思うのですが、違うのでしょうか。
同じようなことを何度も書きますが、「大盛希望無料」みたいに「誰もが希望どおりに」なるものもときにはありますが、多くの場合希望の実現には相当の困難がともなうでしょう。「希望するバランスを決める」ことは自由にできるとしても、それが実現できるかというと、そこには資源の制約は当然あるわけです。家庭活動も地域活動もしたい、でも生計のためにはそれなりに働かざるを得ない、といった制約のなかで、多くの場合は「希望どおりではないけれど、現実には仕方ないか」といった妥協を選択しているはずです。私だってやりたいことをやりたいようにやったとしたら一日が30時間あっても足りません(笑)
もちろん現状のままでいいというわけではないでしょうし、ワーク・ライフ・バランスが大切だというのもそのとおりでしょう。ただ、理想を追求することは大事だとしても、理想が容易に実現するような幻想を振りまくのは、為政者としては戒めるべき行動だと思うのですがいかがなものなんでしょうか。