ジェンフリ・バトン

ということできのうの続きです。

ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。

異性のロッカーや下駄箱などにはみだりに近づかない、というのは常識的な配慮はないかと思うのですが、違うのでしょうか?もっとも、ジェンダーフリーを徹底するために男女一緒に着替えさせるというのが極端な例としてよく引き合いに出されるくらいですから、そんなことを気にする必要はない、気にするべきではないということなのでしょうが(ひょっとして、この「ロッカー」って「ロッカールーム」のこと?)。私はロッカーや下駄箱には名簿と違って配慮が必要だと思いますし、小さい頃からそういう配慮を学ばせることが望ましいと思います。

小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。

教科書も選べないので当然配慮が必要ですが、こういう「点検」がいいものかどうか。もちろん明らかに不適切な表現は困りますが、やはり大事なのはバランスではないでしょうか。「女性の脳外科医(って男性、というイメージがあると思うのですが)」や「男性の看護師」などもバランスよく取り上げることが望ましいと思います。

男女別学の公立高校を共学にする。

高校は基本的に選べるので、すべてを共学にする必要はないと思います。別学が良くないのであれば行く人が減って、おのずと共学が多くなるでしょう。

高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。

一学年定員100人の高校で、男性が30人しか受験しなかったらどうするんでしょうか?もちろん、たとえば工業高校が30%をめやすに女性合格者を増やしていこうとか、家政高校がなんとか男性を10%くらい合格させようとかいった努力目標を持ったポジティブ・アクションに取り組むといったことは有意義だと思います。とはいえ、入学試験で選抜する以上はやはりそれはマイノリティに対する優先枠であるべきで、「半々」というのは社会的公正に反するのではないかと思います。

黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。

おお、「女男ともに」と来ましたね。ランドセルの色(とか、そもそもランドセルを使用すること自体)は学校が強要しているわけではありませんから、基本的には個人の自由でいいのではないでしょうか。実際、ランドセルの色はかなり多様化していますし、なにかの広告(子供向けアパレルだったか)で、女子が黒いランドセルを背負っている大きな看板を見た記憶もあります。高学年になるとランドセルを使わない子どももけっこう見かけます。ジェンダー・フリーの運動論として学校が黄色いランドセルの使用を児童に強要するというのは、いささか常軌を逸しているような。


こうしてみると、理詰めで考える部分と、たとえば「私物を異性に見られるのは恥ずかしい」「そんなの平気」といった感じ方、感覚の部分とがあるようです。「一緒に着替えることくらい平気にならなければ、ジェンダーフリーは実現できない」というのも一つの考え方ではあるでしょう。しかし私は、人により感じ方、感覚が多様に異なるのであれば、その多様性への配慮はやはり必要ではないかと思います。