解雇規制は学歴差別を助長するか

今朝の日経新聞「経済教室」では、政策研究大学院大学教授福井秀夫氏が、わが国の厳しい解雇規制について「学歴偏重を助長し、所得階層を固定し、格差を拡大させる」として、その見直しが必要と述べておられます。

 裁判例の積み重ねで労働者の解雇に関しては、厳しい要件が課されている。労働者の生産性が低くても使用者は容易に解雇できず、採用時に学歴を重視せざるを得なくなり、格差を助長している。判例頼みから脱却し、雇用契約の精緻化と合意の尊重を立法で図るべきだ。
(平成18年4月28日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)

解雇規制については、福井氏自身も関与してきた規制改革・民間開放推進会議やその前身である各会議・委員会において、かねてから緩和が主張されてきましたが、労働界はもちろんのこと、経済界からも慎重が意見が表明され、今のところ大きくは実現していません。その大きな理由として、規制緩和論者たちが企業の人事管理や人材戦略について十分に理解していないことがあるように思われます。ここでは福井氏の所論を材料に、この問題について考えてみたいと思います。


まず、福井氏はこう述べます。

 格差問題の隠れた大きな論点は学歴偏重である。東大をはじめブランド大学の学歴貴族へ仲間入りすることが就職などを左右し、人生の勝者を意味するという学歴神話は今も広く信じられている。学歴を通じて所得階層が固定・再生産されることで、格差がより助長される。
 ブランド大卒者で仕事の能力が劣る者は少なくなく、逆に知名度の低い大学卒業者や非大卒者にも第一級の人材はよく見かける。ではなぜ、本当の才能が正当に評価されず、学歴以外の評価や事後のやり直しがうまくいかないのか。筆者は労働市場における解雇規制が主因であると見ている。

まず議論の前提として確認しておかなければならないのは、企業は基本的に能力(かなり広い意味での)をみて採用を行うのであり、学歴(というか、福井氏の論旨からすれば大学名)はあくまでその判断にあたっての参考情報のひとつに過ぎないということです。ブランド大生であれば無条件に採用されるなどということはありえませんし、実際、ブランド大生で就職できなかった人も過去多数いるでしょう。
いっぽうで、大学入試は相当程度自由競争であり、その結果は能力の有力な代理指標になるということも確認しておく必要があるでしょう。これは実務家の間では伝説(真実かどうかは保証の限りではありませんが)になっていますが、産業界の先頭を切って「学校名不問採用」に踏み切った某大企業で、結果をみたら学校名不問のほうが従来以上に合格者がブランド大に偏ってしまった、という話もあります。
もう一つ確認しておかなければならないのは、企業は能力そのものを求めているのであって、その能力を形成するためにどれほどの資本が投下されたかについてはそれほど関心がない、ということです。もちろんまったくないというわけではありませんが、たとえば苦学生を高く評価するといったように、どちらかといえば投下資本が低いほうを好む傾向にあるでしょう。経済的に教育投資が可能かどうかによって獲得される能力に差がつき、格差の再生産や階層の固定化が起こるという理屈はあるでしょうが、それは企業としては基本的にはあずかり知らぬところだろうと思います(もちろん、社会貢献の一環として奨学金を提供するといった取り組みは多くの企業で進められていますが)。
さて、福井氏は続けて、現行の解雇権濫用法理、整理解雇の4要素(要件)、雇止めに対する解雇権濫用法理の類推適用などについて説明したうえで、こう述べます。

…裁判官自身は経営や人的資本蓄積の分析の専門家ではない。それだけに、多数の判例の間で実際の判断基準には大きなばらつきがある。どんな経営状況で、どのような対象者について、どういう理由と手続きの下で解雇が有効となるのか、事前に予測することは不可能である。

もちろん予測可能性が高いことは望ましいわけですが、いっぽうで「実際の判断基準」がケースによって異なることはむしろ当然でしょう。たとえば高給で引き抜いてきた営業部長を「能力不足」で解雇した場合に、大学新卒2年めの若手を「能力不足」で解雇するのと同じ「判断基準」で判断されたのでは企業としてはたまりません。もちろん、「なんとなく気に入らないから」とか「リストラが流行だから」とかいう理由での解雇まで認めるということであれば、たしかに予測可能性は高まるでしょうが、福井氏もそこまで主張しているわけではないでしょう。解雇は労働者に重大な不利益を与えるだけに、企業・実務家としても「これなら大丈夫」という覚悟のうえに実施すべきものだろうと思います。なお裁判官は経営や人的資本蓄積の分析の専門家ではないという点については、労働審判制である程度カバーできるでしょう。
続いて福井氏はこう述べます。

 労働者の生産性が使用者の求める水準を下回るとき、使用者は通常その乖離の大きい労働者から解雇を試みようとする。…労働者の生産性を採用面接の時に見極めることは困難だから、この判断には重大な情報の非対称が存在する。…一定の期間、実際に雇用して観察しない限り、労働者の生産性を正確に判定することは困難である。仮に解雇が自由であるか、契約により生産性の低い労働者を解雇できる世界では、使用者は労働者の学歴にこだわらず採用時に冒険ができる。最終的に生産性の高い労働者に残ってもらうことができるからである。

労働者の能力(福井氏は「生産性」と言っていますが)について情報が不十分、非対称であることはそのとおりでしょう。ただ、「仮に解雇が自由であるか、契約により生産性の低い労働者を解雇できる世界では、使用者は労働者の学歴にこだわらず採用時に冒険ができる。最終的に生産性の高い労働者に残ってもらうことができるからである。」というのはいささか一面的です。現実には、すでにトライアル雇用や紹介予定派遣などの枠組みが準備されていますし、当初は有期雇用として、能力を見極めてから長期雇用とするという運用も可能です。解雇規制を緩和しなければ福井氏の言うような「冒険」ができないとはいえません。
また、「生産性の低い」労働者をどんどん解雇すれば「最終的に生産性の高い労働者に残ってもらうことができる」かどうかも疑わしい部分があります。周囲の労働者が次々と解雇されるのをみた「生産性の高い労働者」が、この企業では自分も解雇される可能性が高いと判断して、解雇が行われていない企業へと転職してしまう危険性はありうると思います。
加えて、仮に相対的には生産性の高い労働者が残ったとしても、その絶対的な水準までは保証されません。現在の日本企業の多くは、長期勤続を通じて高度な技術・技能を蓄積させ、かつその相当部分は自社に独自・固有な一種の企業特殊的熟練とする(なる)ことで競争力を高めるという人材戦略をとっています。そこで解雇が頻発するようになれば、企業に独自な熟練を形成した労働者が解雇されたときの不利益は非常に大きなものとなります(そのため、長期雇用については厳しい解雇規制が存在するわけです)から、これに対するインセンティブが低下し、結果として生産性の絶対的な水準が低下する危険性はきわめて高いと思われます。
さて福井氏の続く主張はこうです。

 ところが現在の判例は、正規雇用者の解雇については、労働者の非行・疾病の程度、その経営への影響、労働者の情状、経営合理化の必然性、正規雇用者よりも先に期限付き雇用者を解雇したかどうかなどを総合勘案する。期限付き雇用者の雇い止めについても、業務の臨時性、使用者による継続雇用を期待させる説明ぶり、反復更新の有無・回数などの諸要素を勘案するが、予測できないのみならず、生産性は重視されない。
 したがって、労働者の生産性がいかに低くても、めったなことでは解雇できず、できても裁判で多大な労力・時間を含む費用が生じることを、使用者は覚悟しなければならない。
 このため、例外は多数あるが、確率的に生産性の高いブランド大卒者を重点的に正規雇用することが、使用者にとって合理的な選択となる。…

ブランド大とはなにか、というのが実ははっきりしませんが、これは企業によって異なるもので、その企業で採用数が多い大学、という捉え方をすればいいのでしょうか。
判例についての記述が、懲戒解雇や労働者に非がある場合の解雇と整理解雇とが混同されているのが気になりますし、訴訟という場面でどのように生産性を定義し測定するのだろうかという問題(成果主義につきものの問題ですな)もありますが、それはそれとして、「労働者の生産性がいかに低くても、めったなことでは解雇でき」ないというのはいささか誇張が過ぎるのではないでしょうか。もちろん、カジマ・リノベイト事件の一審判決のような極端な例もありますので、現状に問題なしとはしませんが、労働者にそれなりの非があれば解雇は可能なのであり、規制緩和論者はここを過大評価する傾向があるように思われます。
また、労働者の生産性が低い場合に、解雇しなければ解決にならないというのもやや極論でしょう。現実には、生産性の低い人には生産性が低いなりの仕事をあてがい、労働条件もそれなりのものに抑制するという対応が広くとられています。
さて、福井氏は「確率的に生産性の高いブランド大卒者を重点的に正規雇用することが、使用者にとって合理的な選択となる。」と述べていますが、現実には使用者が一貫してそういう行動をとっているとは思えません。もちろん、最初に確認したように、大学名は能力のかなり有力な代理指標になりますから、学生側もそれほど志望度の固まっていない段階、非常に大きな人数を対象とした段階での大雑把なスクリーニングとして大学名が使われるくらいのことはあるでしょう(それとて、現在は「リクナビ」などインターネット利用が拡大しているので、それほどのことはないのではないかと思いますが)。あるいは、過去の実績からくる「安心感」のようなものもあるかもしれません。善し悪しはともかく(特に、それで機会が狭められる人にとっては歓迎できないでしょうが)、それは採用コストの効率化のためであって、解雇規制の強弱とはそれほど関係ないだろうと思います。現実には、「偏重」を主張する福井氏もしぶしぶ?「例外は多数ある」と認めているように、企業は格別大学名に「偏重」しているわけではなく、採用試験の結果能力の高そうな人から順に採用した結果、ふたを開けたらブランド大生が多かった、というのがより実態に近いのではないかと思います。
続いて福井氏は非正規雇用に言及します。

…また、正規雇用は先に述べた情報の非対称のためにリスクが大きいため、期限付き雇用、派遣労働、パートタイマーの採用が増えるのである。
 彼らは正規雇用者の既得権を守る安全弁となって労働者の階層分化が生じる。しかも期限付き雇用も、更新を繰り返すことなどで使用者が継続雇用を強制される。このため、正規雇用のコストを賄うだけの生産性はないが期限付き雇用のコストを賄う高い生産性を持つ労働者が、期限到来時に無理やり解雇される事態が頻発するのである。

正規雇用の主たるリスクは情報の非対称にあるのではなく、これこそまさに福井氏の批判する「解雇規制」にあります。長期雇用だけで固めてしまうと売上や生産量が低下して余剰人員が発生したときに、人員規模を適正化することができません。したがって、それに対応できるよう、ある部分は「期限付き雇用、派遣労働、パートタイマー」といった非正規雇用でまかなう必要が出てきます。長期雇用が長期にわたる熟練形成を意図している以上、非正規雇用の仕事は主としてそれほど熟練を要しない、補助的なものとなることが多くなるでしょう。
これはもっぱら「整理解雇の最小化」を意図しているのであり、福井氏のいう「生産性の低い労働者を解雇できないから、生産性の低い仕事は非正規雇用があてられる」とは似て非なるものです。それは一面では「正規雇用者の既得権を守る安全弁」と映るでしょうが、いっぽうで正規雇用者の既得権にも「企業特殊的熟練の蓄積と解雇による大きな不利益」という合理的な理由があり、そのバランスをとる必要があります。そもそも正規雇用者の解雇規制を緩和する、あるいは自由化することは、要するに正社員の非正社員化であって、たしかに解雇されるような正社員の処遇を低下させることで格差は縮小するかもしれませんが、株主や経営者、解雇の可能性が低い幹部や専門職との格差は拡大し、結果として社会全体の格差はより大きくなりかねないのではないかと思うのですがどんなものなのでしょうか。企業による人材育成だって今ほどは行われなくなるでしょうし…。
なお、「期限付き雇用も、更新を繰り返すことなどで使用者が継続雇用を強制される。このため、正規雇用のコストを賄うだけの生産性はないが期限付き雇用のコストを賄う高い生産性を持つ労働者が、期限到来時に無理やり解雇される事態が頻発する」という指摘はまったくそのとおりで、反復更新によって期間の定めのない雇用に転化するという判例があるがために、企業も労働者も契約更新を望んでいるにもかかわらず雇止め(解雇ではありません)せざるを得ないという不合理が発生しています。ここは改善が望まれるところです。
さて、ここで福井氏は話題を転じます。

 さらに、日本のように解雇が極端に制限される社会では、他の雇用先になじめなかった労働者の転職市場も、新卒市場と比べてますます小さくならざるを得なくなる。使用者が労働者の実績を時間をかけて確認することができないためだ。

学歴偏重だのそれによる格差拡大だのとはあまり関係なさそうな議論ですが、もともと、解雇にともなう不利益が大きいのはわが国の転職市場が未成熟、あるいは小さいからだという議論がありますので、重要なポイントとして一言言及したのでしょう。まあ、解雇によって労働市場流入する人が少ないという意味では、転職市場が小さくなるというのはもっともです。また、ある人がある職を解雇されれば、「他の雇用先になじめなかった労働者」がその職を獲得するチャンスが生まれる、というのもそのとおりでしょう。ただ、その理由が「使用者が労働者の実績を時間をかけて確認することができないためだ。」というのはどういう意味なのかよくわかりません。しかも、現実にはトライアル雇用や紹介予定派遣のような枠組みも用意されています。そもそも、転職市場の拡大はいいとしても、それはジョブ・セキュリティを高める方向でなければいけないはずで、解雇を増やすことがそれにかなうとはあまり思えません。生産性の高い人がみずからキャリアアップをめざして転職を志向し、それを活用しようという企業が中途採用を増やすという形での転職市場の拡大は大いに歓迎すべきことでしょうが。
さらに福井氏は話題を転じます。

 「賃金や処遇は雇用契約で書き切れない一方で、解雇規制には労働者の生産性を高めたり賃金を抑えられるメリットがある」として、規制が経済効率を高めると主張する向きもあるが、仮定の置き方に無理がある。

これも理論的に重要なポイントということで一言言及したのでしょう。一時期、解雇規制が経済全体の厚生を高める可能性があるということを不完備契約理論を使って説明しようという試みが行われ、それに対する批判との間で活発な論戦がありました。現時点では明確な結論はないようで、いささか神学論争めいた部分もあり(もちろん、それはそれでたいへん有意義なものと思います)、少なくとも企業の人事労務管理の実務において解雇規制の有用性を感じている立場からは、「仮定の置き方に無理がある」と一刀両断に切り捨てられるのには違和感を覚えます。
さて、いよいよ福井氏の所論も結論へと進みます。

 以上を踏まえると、あいまいかつ木を見て森を見ない判例を通じた日本の強力な解雇規制は次の四つの問題を生んでいるといえる。つまり、(1)就職市場での学歴による差別の極端な助長(2)職を得てしまった生産性の低い正規雇用労働者の極端な保護(3)そのコストを賄うことによる、生産性の高い正規雇用労働者や派遣労働者、パートタイマー、さらには株主の身分や給与・利益の阻害(4)転職市場の縮小、職業生活の再チャレンジ機会の阻害、である。

まず(1)については、大学入試はほぼ自由競争で、大学名を選考の参考とすることにはそれなりに合理的な面もあり、しかも大学名だけで採用を決めているわけでもないことから、必ずしも「差別」とまではいえそうもないこと、しかも実態としては大学名以外のことを重視して決めた結果としてブランド大生が多くなったというのが大勢だろうと思われること、さらに企業には現行解雇規制下でも紹介予定派遣など「冒険」をする方法があり、採用ミスについても労働条件などで対応することが可能であることから、まったくの的外れと申せましょう。
また、(2)についても、生産性の低い労働者に対しては相応の処遇がなされるいっぽう、きわめて生産性の低い労働者を解雇することは現状でも可能であることから、生産性の低い労働者が「極端な保護」を受けているとは考えられないと思われます。
(3)に関しては、「極端な保護」ではない以上、そのコストも福井氏が強調するほどには大きくないと考えていいのではないかと思います。派遣労働者やパートタイマーが必要なのは、生産性の低い労働者を解雇できないからではなく、整理解雇を少なくするためです。
(4)については、たしかにそうかもしれませんが、そのために解雇を増やすことがいいことなのかどうかという疑問は残ります。
さて、福井氏の議論はとどまるところを知りません。

 これらは日本社会に由々しきひずみを構造的にもたらしている。第一に、学歴取得に対する人的資本投資は過度に行われる半面、その後では特許などの知的財産や科学技術・経営の革新を生み出すための投資インセンティブが抑制され、創意と工夫で社会の発展をけん引する気風が希薄化する。
 第二に、低生産性分野の産業が過剰人員を抱え込み、円滑な産業構造転換が困難になる。
 第三に、学歴貴族・既得権を持つ中高年層が若者・非正規雇用者の就業機会を奪い、社会階層の流動化を阻害して格差を助長する。
 解雇規制の自由化はむしろ、学歴やコネ・既得権がなくても誠実に努力する大多数の日本の若者や勤労者を確実に救済するだろう。
 今月起きたフランスでの一連の学生デモは、若年層解雇を容易にする制度への反対が背景にあったが、国立行政学院ほかの特権層の学生たちや自らへの波及を恐れる既に職を得てしまった既得権層、労働組合がデモを支持した一方、失業者、移民層などは相対的に冷静であった。このことも、日本と同様の事情を反映しているといえよう。

第一に「学歴取得に対する人的資本投資は過度に行われる」といいますが、それはそれなりに能力獲得に対する投資ともなっているのではないでしょうか。また、就職してからもOJTなどを通じて能力向上に励まなければならないことは今も昔も同じであって、学歴取得に熱心だから「特許などの知的財産や科学技術・経営の革新を生み出すための投資インセンティブが抑制され」るという理屈がよくわかりません。子どもの教育なんかにカネを使わずに、企業の株を買って研究開発投資の資金を提供しろとでもいうつもりなのでしょうか?そもそも、進学や学問を志すことがどうして「創意と工夫で社会の発展をけん引する気風が希薄化する」ことになるのでしょうか?
第二に「低生産性分野の産業が過剰人員を抱え込み、円滑な産業構造転換が困難になる」というのは、これまでしきりに述べ立ててきた学歴偏重とか、生産性の低い個人が解雇できないといった議論の流れからはいかにも唐突ですが、たしかにこうした側面からの解雇規制に対する批判もありますし、これはある意味一部分当たっているかもしれません。
ただ、これとて、要件を満たせば整理解雇は十分に可能です(過去の判例をみても、整理解雇の必要性に関しては裁判所は経営者の判断を尊重する傾向があるといわれます)。また、低生産性分野に働く人の生産性が低いかというとそれはまた別問題で、たとえば化学産業などでは、人的資本をうまく転用しながら事業構造を変化させています。
第三に「学歴貴族・既得権を持つ中高年層が若者・非正規雇用者の就業機会を奪い、社会階層の流動化を阻害して格差を助長する。」といいますが、学歴だけを理由に高賃金を払っている企業があるわけもなく、仮に学歴だけが立派で生産性の低い人がいたとしても(いるでしょうが)、その人の賃金はそれなりの水準に抑制され、賃金分の働きを強く求められているでしょうから、およそ「貴族」というようなけっこうな身分であるとも思えません(むしろ、一部の人は「正社員の働きすぎ(働かせすぎ?)批判」を熱心に展開しているくらいのもので)。また、「既得権を持つ中高年層」といいますが、中高年正社員にしてみれば、その既得権が正当化できるだけの努力はしている、という反論は当然ありうるでしょう(なにせ、「正社員の働きすぎ」批判なんですから)。
「若者・非正規雇用者の就業機会を奪い」というのも、それでは中高年を解雇したらこんどは中高年の就業機会がなくなるだけの話なので、解雇の促進ではなく、雇用機会の増大こそが必要なのではないでしょうか。
「解雇規制の自由化はむしろ、学歴やコネ・既得権がなくても誠実に努力する大多数の日本の若者や勤労者を確実に救済するだろう。」というのも、いささか理解に苦しみます。非正規雇用の増加が注目されていますが、依然として正社員は勤労者の3分の2を占める多数派です。正社員のすべてがブランド大の学歴とコネと既得権を持っているわけではないでしょうし、大多数の正社員は誠実に努力しているでしょう。彼らの解雇を自由化することが、どうして「誠実に努力する大多数の日本の若者や勤労者を確実に救済する」ことになるのでしょうか?あるいは福井氏は、非正規雇用が「救済」されると述べたいのかもしれません。しかし、正社員の解雇の自由化は正社員の非正社員化であり、ある正社員が解雇されて、その職を別の非正社員が獲得したとしても、いつ解雇されるかわからないという意味では少しも「救済」されていません。むしろ、有期雇用のほうが期間中は雇用されるという意味ではマシかもしれないのです。
そして、福井氏はさらに論を進めます。

 来年の通常国会へ法案提出を目指す労働契約法に、裁判官への白紙委任に近い先の四要件をそのまま盛り込もうという動きがあるが、これでは政策決定者の責任放棄である。本来判例による法の読み方が妥当でなかったり、判例のばらつきが大きい場合に、法改正して過去の判例法を破る政策を実現することこそ行政や立法の役割のはずだ。
 雇用政策の課題は、自らの判決の社会経済的な効果の見通しすら持たない判例を単純に法令化することなどではない。
 解雇の際の使用者による金銭補償を制度化すべきであるという主張もあるが、金銭補償は本質的解決たりえない。今よりましとはいえても、これは元来、判例により人為的に作り出された一種の「解雇権を排除する強力かつ不明朗な権利」を無批判に与件とする議論である。本来そうした権利自体の不条理を直視し、その強さと範囲を見直すことこそ先決である。

ずいぶんリキんだものですが、福井氏の所論は「解雇権を排除する強力かつ不明朗な権利」が存在し、それが「不条理」であれば成り立つのかもしれません。ただ、残念ながらこれを読む限りでは「強力かつ不明朗」というのはつまるところ福井氏の主観に過ぎないようですし、「不条理」であるという理由も、「学歴差別」とか「正社員と非正社員の格差」とか「階層の固定化」とかいった昨今流行の話題をたくさん織り込んで多大な努力が行われているにもかかわらず、ほとんど説明されていないと言わざるを得ないように思います。

  • 為念申し上げておきますが、私はここで「学歴差別していい」とか「正社員と非正社員の格差が拡大していい」とか「階層が固定化していい」とかいうつもりは一切ありません。福井氏がこれらについて「労働市場における解雇規制が主因である」と主張していることを批判しているだけです。

4要件をそのまま法制化することがいいかどうかは、私も疑問はあると思っています。ただ、その理由は、個別の事件の事情によっては4要件を硬直的に適用することが不適切で、それにこだわらない適切な判断が求められるケースがあるのではないか、というもので、福井氏に言わせれば「木を見て森を見ない」「不明朗な」ものではありますが。
最後に福井氏は労働契約法制に言及します。

 正しい雇用政策とは、情報の非対称性を是正する対策を講じることだ。すなわち業務内容、給与・労働時間・昇進などの処遇、人的資本投資に対する労使の負担基準などに関する客観的細目を雇用契約書に記載させるための法的仕組みを整備し、労使双方にやり直しの機会を与え、さらに当事者の合意を最大限尊重することが重要である。解雇制限は格差問題を悪化させる原因であり、解決策ではありえない。

私も、労働契約の内容をなるべく明確化し、トラブルを防ぐことは大切だろうと思います。どうも、日本企業の人事管理の柔軟さ、というか融通無碍さは、ときに有識者の先生方をいらだたせるようで、福井氏のように「だから解雇規制が厳しくなるのだ」という人もいれば、「だから働かせすぎにつながるのだ」という人もいます。前者は当事者の合意を重視して米英型の規制緩和を、後者は社会的統一性を重視して大陸欧州型の規制強化を志向するわけですが、具体的な「対策」はかなり似ていて、どちらも「業務内容、給与・労働時間・昇進などの処遇、人的資本投資に対する労使の負担基準などに関する細目を客観的に明確化する」を求めるのが面白いところです。ただ、前者は細目に生産性などを織り込み、それを満足しないと賃下げ・解雇ということになりますが、後者は生産性にかかわらず賃金は同じで解雇もさせない、というところでしょうか。かなりピンボケな整理のような気もしますが。
それはそれとして、ビジネスというのは生き物ですから、企業の仕事や業務内容はさまざまに変動しますし、労働者はそれこそ自然人なのですから、それぞれに成長もするでしょうし、いろいろな事情も変わるでしょうし、関心も動くでしょう。多くの日本企業は、こうしたことをふまえて、変化への対応力を高めることで企業を存続させ、変化や不確実性への対応力の高い人材を育てることを競争力戦略の中心に据えてきました。労働条件も、労働市場の需給関係や職種別の団体交渉ではなく、企業別の団体交渉が中心となって決められてきました。先生方のいらだちもわからないではないのですが、それが日本企業の競争力、ひいては日本経済の成長の原動力になってきたことも事実ですし、そう簡単に変えるわけにもいかないでしょう。労働市場も大混乱するでしょうし、企業の生産性もガタガタになるのではないかと思います。
私は、労働契約法制は、各企業における労働条件決定がなるべく労使対等に行われるような手続規制を中心におくべきではないかと思います。それが日本企業の人事管理の特徴を生かしつつ、トラブルを防ぐには最善ではないかと思います。
そう考えると、解雇規制についても現状程度がほどほどのところで、ただし具体的事案の個別事情に応じた判断ができる枠組みが望ましいと思います。それには新たに発足した労働審判制が重要な役割を果たすでしょう。