待ち組

 小泉改革の結果として「勝ち組」と「負け組」の二極化が進んでいるという批判に対抗するため、小泉首相や猪口少子化相が「待ち組」という言葉を使い始めた。勝ち負けの“二元論”にくさびを打ち込み、改革の影の部分が論点になりそうな風向きを変えたいという思惑もあるようだ。
 「待ち組」は、フリーターやニートなど「挑戦しないで様子をうかがう人」を意味する造語。猪口氏は1月31日の記者会見で、「『負け組』は立派だ。その人たちは戦ったのだから。本当に反省すべきは『待ち組』だ」と述べて、フリーターらの奮起を促した。
 小泉首相も2日の内閣メールマガジンで「待ち組」の存在を指摘し、「そういう人々も持てる力を存分に発揮し、創意工夫を活(い)かすことができる社会にしなくてはならない」とつづった。
(平成18年2月5日付読売新聞朝刊から)

どうも、私はかねてから「構造改革」論のこうした言説に違和感を覚えています。


構造改革論者は、すぐに「リスクを取ってチャレンジすべきだ」ということを言うわけですが(たとえばこれとか)、闇雲にリスクを取って案の定リスクが実現したというのでは当人はたまりません。まあ、最近でこそ経済環境が改善してリスクも比較的取りやすくなった(というか、リスクが減少したというべきか)わけですが、90年代のような経済が長期低迷している時期には「環境が好転するまで、好機が訪れるまで『待つ』」というのが合理的な判断だったというケースが多かったはずです。闇雲に戦った人が偉くて待っていた人が反省しなければならないというのはどうも納得いかないものがあります。
記事にある小泉内閣メールマガジン(2月2日号)の記述はこうなっています。

 むしろ、「勝ち組」「負け組」のほかに、挑戦しないで待っている人「待ち組」がいると思います。そういう人々も、持てる力を存分に発揮し、一人ひとりの創意工夫を活かすことができる社会にしなくてはなりません。そして、どうしても自分の力ではできない人に対しては、お互いに助け合う、持続可能な社会保障制度がしっかり支える社会、そういう社会の実現をめざして、これからも改革を進めてまいります。

まあ、猪口大臣の発言に較べるとかなり穏当ではありますが、基本的な発想は同じですよね。ただ、首相の場合は、2月2日の参議院予算委員会の質疑ではこんな言い方をしたようです。

谷川秀善氏(自民)
 谷川氏 「勝ち組」と「負け組」の格差が大きくなっている。
 首相 「勝ち組」「負け組」だけでなく「待ち組」もいる。「負け組」は戦ったから負けたので、責められるべきでない。自民党総裁選でも、出ずに少し待とうとしている人もいるかもしれない。その人の判断に任せるが、チャンスがあったら逃げないで挑戦する努力が必要だ。負け組となっても再度挑戦して勝ち組になれる社会にしたい。
(平成18年2月2日付東京新聞朝刊から)

ということで、首相としてはかなりナマグサい政治的含意のある用語なのかもしれません。まあ、政治の世界ですからそういうこともあるのでしょうが…。