管理職って、俺のことか

「日本労働研究雑誌」12月号の巻頭に、川喜多喬先生が「管理職って、俺のことか」という短いエッセイをよせておられます。

 いたく労働法学者に同情している。気の毒にも役人や組合幹部のために労働者の定義とか、さては労働者の中でも管理職の定義とかを考えてやらねばならぬ。…
 川の平均の深さが40センチであるからといって、川に足を入れて渡り出す人はいまい。一方、極めて多様な管理職について平均像を描こうってのを誰かが止めない故は、論に溺れても誰も死なないからだ。が、管理職の定義を法律でやらかして縛れば、どこかで何かが流されよう。
川喜多喬(2005)「管理職って、俺のことか」日本労働雑誌545号から)

いやもう思い切り受けてしまいましたな。


いきなり、「役人や組合幹部のために」ときたもんだ。なるほど、人事担当者のためとか、ほかならぬ「管理職」自身のことなんて考えてはくれないというわけですね。
誤解のないように申し上げておきますが、私の尊敬する多くの労働法学者の方々は、当然ながら企業経営や人事労務管理、職場の実情にも深い関心を寄せられ、正しい理解に努めておられます(もちろん、そうでない労働法学者もいます。法学者に限った話ではないですが)。川喜多先生が言っているのは、「管理職の定義」をすることが「役人や組合幹部のため」だ、ということでしょう。そして、それが役人や組合幹部のためになり、人事担当者や「管理職」本人のためにならないのは、それが管理職の多様性を捨象するからだと。
実際、その典型例が同じ号に出てきます。

…現在では、長時間労働をしてもそうした(引用者注:日本の高度成長期のような)経済成長はもはや可能ではなく、ヨーロッパの先進国では近時時間外労働の議論はあれ、週35時間の労働からかなり高い生活水準・労働生産性を達成している。…寝食を忘れた働き方を従来にも増して助長・促進する政策的必要性が生じているとはいえないと考える。
(高橋賢司(2005)「管理職の雇用関係と法」日本労働雑誌545号から)

週35時間というのは基本的に現業労働者の話だとか、それすら最近では東欧などへの生産拠点(≒雇用)の流出を防ぐために弾力化を労組がのまざるを得なくなっているとかいうことは、ここではおきましょう。この議論の最大の問題点は、働く人の意識の多様性とか、働き方、生き方の多様性といったものが完全に欠落し、「ある働き方を禁止しない」と「すべての人がそうした働き方になる」かもしれないから「禁止しろ」という議論になっているところにあります。
しかし、当然ながら、現実には「管理職」の一部の人が、ときには「寝食を忘れた」働き方ができるようにする政策の必要性が議論されているわけです。たとえば、「管理職」のなかには、近い将来に独立開業し、巨額の創業者利益を得て、50代で引退してハワイの別荘で暮らしたいという人生設計を描いて、そのために現在は寝食を忘れて働きたい、という人もいるでしょう。労働法学者がそういう人に向かって「あなたが寝食を忘れて働いても日本は高度成長期のような経済成長は不可能です。そんなに働かなくてもそこそこ豊かに暮らせますし、働きすぎは健康によくないし、65歳までは継続雇用されるのですから、仕事は1日8時間までにしなさい」などと言うのは、少なくとも余計なお世話であり、おそらくはまったくのナンセンスでしょう。多様な「管理職」が多様な働き方を望んでいるのに、それを一律の定義のもとに一律に禁じるというのは、「管理職」本人のためになるとはいえないでしょう。寝食を忘れるほど働きたいとは思わない人は、そうしなくてすむようにしておけばいいだけの話ではないでしょうか。
高橋氏はおそらく立派な研究者なのでしょうが、これは法学者が陥りがちな落とし穴なのかもしれません。それを川喜多先生は指摘しておられるのでしょう。
それにしても、「管理職って、俺のことか」ってのは、私自身のことでもあるようです。私は一応管理職の肩書がついていますが、実態は平社員以外の何物でもなく、肩書には「おまえには残業代はつかないよ」というくらいの意味しかない(笑)のですが、寝食を忘れて働くときは働きますし、いっぽうでは年次有給休暇を今年は24日取得して家族とともに過ごしました。一部の法学者(に限らないが)はそれも「ダメ」というのでしょうね。