以心伝心

玄田有史小杉礼子労働政策研究・研修機構(2005)『子どもがニートになったなら』NHK生活人新書の最後に玄田・小杉両氏の対談が載っていますが、その中で小杉氏が「以心伝心という言葉が大嫌い」と発言しています。

小杉 私は以心伝心という言葉が大嫌いなんですよ。それは甘えとしか思えない。

玄田 あうんの呼吸はどう?
小杉 あうんの呼吸も大嫌い。そういうことを言うのは、自分が理解されているという甘えですよ。だいたい男性がよく言う言葉でしょう。
玄田 自分のグループの既得権を守るために、あいつは以心伝心が通じないとか、あうんの呼吸を読めないとか言うね。
小杉 家庭の中で女性にそれを求めるわけですよ。それが大っ嫌い。…型があった頃というのは、お互いにその型の中に入ることによって以心伝心というようなことがあり得たのだと思います。家族の中の役割分担の型のようなものはまさにそうです。それが大きく変わって、個が個として向き合わなければならなくなったときに、お互いに発信しあって、理解できないところは理解し合おうという努力を常に重ねなければいけないのがいまの人間関係だと思います。

ニートの本なので基本的に家庭内についての話で、教育社会学者の小杉氏としては、家庭内での「以心伝心」「あうんの呼吸」を、社会的な「長幼の序」といった価値観や性役割意識を反映した家庭内の役割の「型」をふまえた旧弊なものとして批判しているようですが、労働経済学者の玄田氏はそれをさらに広く、企業などの組織一般に拡大してとらえているのが面白いところです。
好き嫌いといった感情論はともかくとしても、小杉氏のいうように、人々の価値観や意識が大きく変わったなかでは、旧来型の画一的な価値観や意識にもとづいた「以心伝心」が働かなくないといって文句をいってもはじまらない、というのはそのとおりでしょう。いっぽうで、企業組織においてはどうなのか、これはまた別の議論になりそうです。


実は、数年前に開催された旧日経連の「ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会」においても、構成員が多様化した組織のなかで「以心伝心」や「あうんの呼吸」は成り立ちうるか、という議論がかなり活発になされました。
基本的には、「以心伝心」や「あうんの呼吸」は明らかにコミュニケーションのコストを下げますから、こうしたものが成り立つ部分にまで言語でのコミュニケーションを行うことは生産性を低下させるわけで、以心伝心はそれだけをとればそれなりに組織効率を高める効果はあるといえます。
しかし、問題は二点あって、ひとつは以心伝心がうまく働かずにコミュニケーション・ギャップが発生した場合、トータルではかえってコストが高くついてしまうのではないか、という点です。そしてもうひとつは、そもそも以心伝心が成り立つような環境になっていることによって、かえって生産性が低下しているのではないか、という点です。
前者については、企業組織においても、人々の価値観や意識が変化したり、多様化したりする中では、コミュニケーション・ギャップの発生する可能性は高まりますから、これは小杉氏の言うとおりで、「これまではいちいち言わなくても通じていたのに…」という繰りごとを言っていてもはじまりません。問題は後者のほうで、世間における価値観や意識の多様化を受け入れるほうが企業組織にとって効率的なのか、あるいは構成員に画一的な価値観や意識を求めるほうが効率的なのか、という点については議論がありそうです。
まあ、本当に人々の価値観や意識が大きく多様化しているとしたら、画一的な人ばかりを集めていたのでは優秀な人材が確保できない、ということは実務的な実感としてはありそうです。あとは多様化のコストとのかねあいということになりますが、少なくとも優秀な女性の登用や、女性労働力の確保といった観点からは、仕事と生活の両立支援というコストを支払っても割が合うと考えている企業は多くなっているようです。人材確保のためにさまざまな配慮を行っている中小企業の事例も多数あります。こうした企業では、確実に以心伝心の威力は低下しているに違いありません。
さらに、画一的な人材が集まっても創造的な成果は生まれにくい、多様性を受け入れて多様な人が集まったほうが創造的な成果があがり、生産性も向上する、という魅力的な仮説もあります。本当にそうかどうかについては必ずしも証拠はないというのが現状のようですが、「ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会」、さらにはその成果を取り込んだ日本経団連の「新ビジョン」もこの仮説を採用しています。
そのとき、「以心伝心」はどうなるのか。「ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会」では、これがまったくなくなってしまうということは考えにくい、やはり組織である以上は全員に必ず共有されるべき価値観があるはずであり、その部分においては「以心伝心」「あうんの呼吸」が成り立たなければ組織として機能しないだろう、との見解が大勢だった、というのが私の印象です。従来型の、伝統的な価値観や意識にもとづく「以心伝心」は、これは成り立たなくなって当然だし、それを維持しようとするとかえってコミュニケーション・ギャップや人材確保難に直面するだろう。そうしたものをそぎ落として、企業風土、企業文化にもとづく構成員の意識のコアな部分での「以心伝心」は、むしろしっかり確立していかなければならないのではないか。こうした、「新しい以心伝心」が大切だろう、というのが研究会の結論だったように思います。
まあ、これは特に根拠や証拠のある議論ではなく、研究会の委員(企業の中堅人事担当者クラスが中心)の実務実感によるある種理想論に近いものですが、それなりに魅力的な考え方ではあるのではないかと思っています。

子どもがニートになったなら (生活人新書)

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